一粒のタネ(7)坂田武雄物語

2011-03-05 00:00:21 | 坂田武雄物語
坂田武雄にとっての戦後とはなんであったのだろうという気がする。

昭和20年6月に社長の座を退いた彼が最初に行ったのは、坂田家の養子探しである。妻を大事にし過ぎたからかもしれないが、二人の間には実子は生まれなかったのである。昭和21年に旧佐倉藩主堀田家より正之氏を養子受け入れしている。幕末に老中として活躍した堀田正睦の子孫である。堀田家は武雄が開業するよりも少し前、明治30年に佐倉に「堀田農事試験場」を開所している。さらに正之氏の父は大日本農会会頭に就任していたこともあり、そういう縁があったのだろうと推測できる。


足元を固めた彼は、周囲からの強い声に押され、再び坂田種苗(株)の社長の席に戻る。しかし、オール・ダブル・ペチュニアの技術は既に米国に追いつかれていた。彼は、本格的に野菜類の種子改良に取り組みはじめることになる。

例えば、プリンスメロン。「庶民に食べてもらうためのメロン」という開発目標があった。

例えば、スナックエンドウ。熱湯に二分間入れるだけで、おやつ感覚で食べられる。菓子よりも健康にはいい。

例えばハニーバンタム。収穫してから4日間は甘みが残るように改良したため、大市場から遠隔地でも商品化できるようになった。

昭和49年(1974年)。社長を辞任し、会長に就任。86歳。

昭和54年(1979年)。相談役となる。91歳。

昭和57年(1982年)。妻美代没。

昭和58年(1983年)。長年収集していた坂田コレクション絵画彫刻53点を横浜市に寄贈。

昭和59年(1984年)1月12日。96歳の生涯を閉じる。墓所は鎌倉庭園である。



横浜市に寄贈された53点の美術品は現在、横浜美術館に所蔵されている。リストの中には相当の美術品が含まれるのだが、以下三点のギリシア神話を題材とした名画が含まれることに気付いた。

ギュスターヴ・モロー     岩の上の女神

ジャン・ジャック・エンネル  ニンフ

ジャン・バティスト・ピガール マーキュリー



思えば、坂田武雄が21歳で米国へ渡り、大柄な米国人たちに混じった農作業の中で、力負けそうになった時、彼の気持ちを支えたのが、ギリシア神話だったことを、思い出したのである。

終わり

一粒のタネ(6)坂田武雄物語

2011-03-04 00:00:14 | 坂田武雄物語
ところで、坂田武雄は、海外では「ペチュニアのサカタ」と呼ばれていたそうだ。武雄が目を付けたのが、八重咲きのペチュニアである。この種は以前からあったようだが、八重咲きと一重咲きの出現が半々の確率だったそうだ。それを100%八重咲き種に改良しようと、3年間の研究で完成させたのだ。



ところが、この種子については、当初、米国では、まったく話題にならなかったそうだ。要するに、日本人にできるわけがないだろう、と思われていたからだ。そのため、坂田商会のオール・ダブル・ペチュニアを世界で初めて評価したのは、ドイツのカタログ通販会社ベナリー社だった。

かくして、ドイツ経由で、米国で認められてから、坂田武雄の事業は、再び軌道に戻る。今度は、花の種子である。茅ヶ崎の農地を借り受け、毎年改良種を売りだしていたわけだ。



そんな時に、彼は見合い結婚をすることになる。取引先の銀行の紹介である。大正15年に挙式。武雄39歳。妻美代は17歳も年下だった。彼は、何よりも妻を大切にしたのだったが、何の運命か美代は、武雄に先立つこと2年。昭和57年に亡くなっている。

ところが、順調に業績を伸ばしていた坂田商会の事業も、昭和11年になり、ピークを打ち、次第に業績にかげりを帯びるようになったのである。

昭和11年の2・26事件から翌年の日中事変と日本が戦争の泥沼に進むにつれ、世間に物資が不足し始める。特に主食である米の供給に不足が目立ち始めてくる。農業は米麦中心となり、花などやめて、芋を作れ、ということになったわけだ。

窮地に立った武雄は、中国大陸に活路を求めることになる。対日禁輸を始めた米国に輸出するため、上海にあらたな土地を仕込み、そこを本拠地にするつもりだったのだ。一方で武雄は、10回以上も渡米していて、彼我の実力差を考えれば開戦することはないだろうと考えていたそうだ。


昭和16年12月8日。運命の開戦の日、武雄は上海にいた。結果、上海支店を含む中国事業をすべて清算し、彼は日本に戻るわけだ。親米派の彼の心中、いかがだっただろうか。

昭和17年には、1月に農産種苗統制要綱が発表され、企業合同が余儀なく行われ、坂田商会を中心として、4社が統合され、坂田種苗となる。5月には、反戦論者として官憲に逮捕される(数日で釈放)。そして、昭和20年6月。思うような経営もできなくなり、失意の彼は、社長から自ら降りることになる。

経営を投げ出したかのごとく思えるだろうが、社長を辞めた彼が、一人で始めたことがあった。自分の開発した数多くの種類の種子を、いくつもの小袋に詰め替え、それを銀行の貸金庫、会社の倉庫、自宅、疎開先の山中湖の別荘に分散して保管することにしたわけだ。

なんとか、種子だけでも戦争による被災を乗り越えさせたかったのだ

続く

一粒のタネ(5)坂田武雄物語

2011-03-03 00:00:04 | 坂田武雄物語
苗木商としての先行きに、巨大な障壁を感じた武雄は、迷わず次の道を選ぶ。それが、「種子」だった。基本的に種子は毎年毎年の産物なので、何年もかけて育てる苗木の取引よりも勝負が付くのが早いわけだ。

だが、当時の日本で種子を海外に輸出しているものは皆無だった。

ところで、一言で種子といっても、大きく「花の種」と「野菜の種」とに分かれる。(本来は、穀物の種という分野があるはずだが、当時でも現在でも日本では、米作自体が管理農業であり、民間の小企業につけ入る隙はなかったのだろう)

しかし、大正初期には、まだ、花の種子の流通は皆無だった。武雄が取り扱いを始めたのは野菜の種だった。しかし、この世界には、また別の問題があった。「信用」だ。つまり、種子の発芽率がナンパーセントなのかは、植えてみなくてはわからないわけで、まして海外に輸出となれば、日本の種子が、その地で育つかどうかなど、皆目わからないわけだ。



その時、以前、恩師アイスレーの紹介で英国、オランダへ渡欧した時の人脈が役に立つ。欧州筋から、何種類かの野菜の種の生産の依頼が舞い込む。

さらに、単なる輸出ではなく、種を海外から輸入して、自分の農場で品種改良をして、優良品種については輸出しようという新しいチャレンジを選択する。「種の起源」に一歩近づいたわけだ。この時、現在の「サカタのタネ」の原型が完成したわけだ。

まず、海外に好まれたのは、日本の伝統的野菜である小松菜、聖護院蕪、長ネギ、金糸瓜などの種子だった。同時に西洋の花の種子を輸入し、それを改良したり、海外からの大量受注をこなしたりしていた。そういう種の取引が活況化していく中で、武雄は、穀物取引の中心地である米国シカゴに坂田商会アメリカ支店を開設することになる。気合十分である。



さらに、大正11年、新興企業が集まっている横浜の横浜公園に面した場所に、三階建ての事務所を新設したわけだ。武雄33歳の時である。当時の横浜は、日本と海外との接点であり、新興企業の多くが、ここを起点に飛躍しようと次々に進出していた。

ところが、・・

事務所新設後1年、またしても悲劇が起きる。

関東大震災。

その瞬間、坂田武雄は三階建ての事務所の三階にいたわけだ。逃げようと思い階段を這うように一階に下りた瞬間、再度の大揺れが彼を襲った。たまたま大きな金庫のそばにいたため、崩れ落ちる建物の下敷きになったものの金庫のおかげで九死に一生を得る。社員が掘り返してくれたわけだ。

私が以前調べた「カール・ユーハイム」物語でも、ドイツレストラン「ユーハイム」が、店舗開設後1年も経たずに倒壊。こちらも瓦礫の中から救出され、一文無しで人生の後半戦を戦うことになる。その他、横浜の歴史を見ると、この震災で新興企業者の多くが、人生を終えてしまった。死んでしまえば夢も希望も煙のごとくである。

しかし、命拾いしたものの在庫の種子はみな燃え焦げてしまう。せっかくのシカゴの事務所も撤退である。売る種子がない。

その後、横浜市西平沼町に仮設事務所を建てたのだが、これが種子乾燥中の失火で昭和2年に焼失してしまうのだ。

続く

一粒のタネ(4)坂田武雄物語

2011-03-02 00:00:05 | 坂田武雄物語
帰国した武雄が、まず向かった先は両親の元なのだが、米国滞在中に父は郷里の久留米の女学校の校長として勤務していた。本来は官費留学生の彼の前には農商務省の官吏としての道が開けていたのだが、両親に報告した自身の選んだ道は、まったく異なるものだった。「苗木商としての起業」である。

しかし、父伝蔵は、賛成しなかった。「武士の商法」という言葉が思い浮かぶだけだった。親族も友人も反対をしたわけだ。まあ、起業家の最初に乗り越えるべきハードルである。彼は、反対意見に耳を傾けることなく横浜の六角橋(近年、ラーメンで有名になったが)に土地を借り、個人会社「坂田農園(後に朝日農園と改名)」を立ち上げる。元手は、3年間手を付けず貯めていた官費給付金1500円である。

翌年、欧米向けに百合根の輸出を始める。当初は自ら修業していたドリアー社のアイスレー社長に、「何でもいいから送れ」と激励され、日米の植生や気候の差などわからぬまま、やみくもに苗木を仕入れては送ったわけだ。


ところが、苗木の取引は、甘いものではなかった。

例えば、有名なワシントンのポトマック河畔の桜でも、当初、東京都が送った2000本の苗木は、害虫がついていたという理由で、サンフランシスコの水際で全部焼却処分になっている。2年後にやっと1000本が送り直されているわけだ。



坂田の輸出も、何度も失敗し、焼却処分になっている。また船便1ヶ月というのも難関で、輸送中に枯れないように特段の箱詰めをしなければならないことも手間がかかることだった。一方、国内や他国から仕入れた苗木の代金は払わねばならないが、輸出途中で滅損してしまえば、代金は入らない。また、日本人とアメリカ人の樹木の好みの差もわからないままだった。(ヒマラヤ杉のような巨大で伸び伸びしたものが米国人好みで、サツキのようなものが日本人の好みだったのだろう)

そして、3年経っても利益の出る気配は、まったくなかった。「朝日農園」は経営危機に直面し、大倉和親氏や森村市左衛門氏といった財界の篤志家からの援助でなんとか持ちこたえていた。

が、さらに、弱り目に祟り目という事態が発生する。

第一次世界大戦である。


苗木を運ぶなどの平和的目的に用いる船舶はどこにもなくなり、軍事物資の輸送が世界的に優先されることになる。貿易が困難になったわけだ。さらに長い大戦が終結しても、日本の苗木に病害虫が多いということにより、今度は全面輸出停止の処置がとられることになる。

そのため、販路を国内に求めようとしたのだが、坂田は日本人向けに、小さな樹木の苗を売る気には全然なれなかった。哲学が違うわけだ。大きな樹木を売って、その樹木が成長していき、何十年先に樹格の高い鑑賞して心が豊かになるようなものを売ろうとしていたわけだ。安かろう悪かろう、という気にはなれなかった。

そして、アイスレーの訃報が武雄の元に届くわけだ。


こうして、苗木商としての業態と決別する時がきたわけだ。大正8年(1919年)。武雄31歳。父伝蔵63歳で亡くなる。

続き

一粒のタネ(3)坂田武雄物語

2011-03-01 00:00:21 | 坂田武雄物語
農業学校を卒業した武雄は、普通のコースで就職しようという気にはとてもなれなかったようだ。稲作を中心とした在来農業を始めようなどという気にはなれなかったのだろう。目指すは「種の起源」だったわけだ。そして、農商務省の海外実業実習生募集に応募する。一山当てたかったわけだ。

実際には、狭き門であり彼以外の受験した同級生も全員落選。さらに農業部門では、武雄一人だけが選抜され、ハワイ経由シアトル行きの安芸丸に乗船することになった。同期生には、ヤナセの創業者である梁瀬金太郎、キューピーマヨネーズの中島董一郎、第一銀行の頭取になった酒井杏之助がいる。

そして、彼が米国に渡ったのには、もう一つの理由があった。高額の給料が支払われたからだ。月給が35ドル(70円)である。さらに、現地で働けば、その分は自分のものだったわけだ。ダブルインカム制である。

ということで、西海岸で職を探したのだが、なぜか不景気のせいもあり就職先が見つからない。武雄にしてみれば、日本からの給料があるのだから、勤め先では無給でもいいので、就職回りの時に、「タダでいいから」と売り込んだのだが、米国では日本人経営者の場合も、「タダでは雇えない」ということになる。日米の勤労に対する価値観の差に直面したわけだ。

そして西海岸での求職活動一ヶ月の後、あきらめて遠く東海岸ニューヨークへ流れる。結局、最終的にニュージャージー州のヘンリー・A・ドリアー(Henri.A.Dreer)という会社に落ち着く。膨大な土地を所有する苗木の会社である。そこで、彼は土を一輪車で運ぶなどの単純肉体労働から人生最初のサラリーマン生活を始めることになる。運命の歯車が回り出していることに、まだ誰も気づいていなかった。

すべての機具や作業工程が巨体を誇る米国人サイズの中で、彼は肉体の疲労に耐え、その時「日本」を見つめ直したと言っている。一方、休日制度のはっきりしない日本と異なり、ドリアー社は毎週日曜が休みである。休日にすることもない彼は、ひたすら図書館に通い、農業の勉強をすると同時にギリシア神話を読み耽ったという。(ギリシア神話の英語版を解説なしで楽しむというのは、並はずれた語学力が必要と思う。)

そして、この東洋のリトルボーイにとって最初の幸運は、社長のアイスレーが彼を贔屓にしたことである。ドイツ系の米国人だったが、苗木や園芸の方面では、世界的に有名な人物だった。経営手腕も、学識も、人格も素晴らしく、そのすべてを武雄は尊敬することとなる。

武雄の非凡なところは、苗木の知識について学ぶ一方で、日本に帰って事業を行うためには、「自分の会社を設立」しなければならないということを知ったところだろう。そして仕事が終わったあと、簿記の学校に通うことになる。しかし、政府からの派遣期間の3年はあっという間に終わってしまうのである。

そして、研修終了間際になり、アイスレー社長から社長室に呼ばれるわけだ。

「イギリスへ行ってみないか。」(もちろん英語で)

アイスレーは坂田武雄を日本の一流苗木商にするために、日本と気候の異なり過ぎる米国だけではなく、比較的似通っている英国の実情を学ばせたかったわけだ。そのためのスチュワートロー社への紹介状を書いてもらうことになる。要するに彼の紹介状が水戸の印籠になったわけだ。

さらに武雄は甘え、英国6カ月の次に、球根をはじめ欧州の園芸取引の中心地であるオランダに3ヶ月滞在できるように手配をしてもらう。帰国前の最後の仕上げとしてフィラデルフィアの小さな種子店で3ヶ月勤める。

実は、最後に種子店で働くことになった時には将来のことなど何も予測できていなかったのだが、日本で苗木商を営もうと思っていた彼の運命にとって、この最後の経験の重要さが痛いほどわかる時がくるのである。


そして、四年間の欧米生活を終え、両親の住む日本に戻ることになる。大正2年(1913年)。時に、25歳である。

続く

一粒のタネ(2)坂田武雄物語

2011-02-28 00:00:48 | 坂田武雄物語
坂田家は、江戸時代、武士階級だった。久留米藩士である。久留米藩は学問に力を入れていた藩であり、多くの藩士が明治維新の後、教職についたそうである。武雄の父である坂田伝蔵も、同藩の藩士の娘である母のムラを伴い、上京して文部省に勤務していたそうだ。

武雄が生まれたのは、東京の四谷荒木町である。明治21年。八人兄弟の長男である。父親の32歳の時の子である、父伝蔵は、1856年、ちょうど黒船来寇で騒然としている幕末生まれである。

そして、明治26年。父親が山形県米沢の米沢尋常中学校長を拝命することになる。引越しである。翌年、武雄は地元の小学校に上がる。(まったくの私事だが、その40年以上後に私の祖父がこの中学で一介の教師として教えることになるのだが、年齢的なことを考えても、中央官庁から校長で派遣されるというのは、かなりのエリートだったのだろう)

その後、父は、体が米沢の気候に合わず、明治30年に滋賀県の彦根の中学校長に転勤する。

さらに、伝蔵は彦根の中学校長職を辞し、東京に戻り、高等師範学校舎監の職を得る。翌年、武雄は半蔵門にある日本中学(日本学園)に新入学する。ちょうど1900年(明治33年)。この頃について、武雄の述懐によれば、父親は動植物が大好きで、自宅の庭や池で動植物を飼ったり植えたりしていたそうだ。彼の原点は、庭付き戸建住宅だったようだ。


5年後の明治38年。中学を卒業したが、最初の挫折を味わうことになる。高校入試失敗である。当時の最高峰である第一高等学校(一高)を受験し、見事に失敗する。どうも、それほどの学業ではなかったようだ。ともかく、一高に入っていれば、その後の人生はすべて異なる路線になるわけだ。中学の時は勉強よりも水滸伝を読み耽っていたそうで、そこに受験失敗の原因があるのだろう。

さらに読書家だった武雄が浪人中にめぐり合った運命の書がある。「種の起源(ダーウィン著)」である。武雄が何を読み取ったのかはよくわからないが、後の彼の仕事が旧来の日本型の種苗業者と異質であったのは、まさに植物の種の改良であったのは絶対的な事実なのである。

そして、改めて武雄が入学したのは、東京帝国大学農学部実科である。現在の東京農工大学。どうも、1年の浪人を取り戻すべく3年間で卒業という就学期間の短い学校を選んだようだ。が、思いもかけず、大学生活は苦労したようだ。自宅の庭で草花を育てる環境とはまったく異なり、学生の大半は地方出身者で、要するに百姓仕事を教える学校だったわけだ。そんな時、愛読していたのは「若きヴェルテルの悩み(ゲーテ)」。後年、いつも仕事に悩み、プロレスを見るとき以外、ほとんど笑うことがなかったと言われる遠因だろうか。

そして、学校を卒業するのが、21歳である。自らの運命を賭ける決断の時が来る。

続く

一粒のタネ(1)坂田武雄物語

2011-02-27 00:00:16 | 坂田武雄物語
shushiガーデンセンターなどで花や野菜の種を買った場合、「サカタのタネ」社の種子を買うことが多いだろう。国内では二位を大きく引き離し、シェアナンバー1の会社である。たまたま、横浜の私の自宅近くに本社があることから、その創業の歴史を辿ってみれば、そこには、創業者が数多くの困難や窮地や災難を乗り越えてきた勇気と知恵と若干の幸運の織りなすストーリーが見えてきたわけだ。

創業者:坂田武雄。明治21年(1888年)12月15日出生。昭和59年(1984年)1月12日没。96年の歴史である。

続く