結構な歴史がある甲府城

2024-07-16 00:00:21 | The 城
甲府方面に所用で行った時に甲府城に登った。極暑ではない日だったが、湿度極めて高く、競歩競技のように通り抜けようと思っていたが・・・

現在の甲府城は江戸時代の城の約1/3であるが、本丸跡と天守台跡が残されている部分が鶴舞公園として整備されている。往時はさらに現在の山梨県庁とJR甲府駅を含んだサイズだった。



有名なのは鉄門(くろがね門)。本丸には石の階段を上ることになるが一段の厚みが高く、筋トレ感覚になる(階段を上る器具はジムにはないが)。

そして、本丸跡だが、甲府城はもともと武田家が織田・徳川連合に滅ぼされたあと築城が始まった。秀吉の時代には家康を警戒した秀吉が徳川を見張るために利用していたとされるが、徳川の時代になると、逆に甲州街道の守りのかなめとしての役目となる。

そのため、長く、徳川家の親戚が城主を務めていた。しかし、歴史上評判が良くない柳沢吉保が、この城の城主となり、財源豊富となり、相当立派な街並みとなり小江戸と呼ばれることになったそうだ。ところが、当の柳沢吉保は甲府城に住んだことはなかったそうだ。その前の徳川一門が城主だった時代も含め、ほとんどの城主は江戸に住んでいたそうだ。



柳沢親子が失職(転封)した後は、幕府直轄領となり藩主はいなくなる。

これらの知識は調べたのではなく、天守台によじ登った時に、天守台の上で待ち構えていた甲府市の公式ガイドの方から丁寧に教えていただいたわけだ。

そして、甲府城は幕末にはオセロゲームのようなことになる。

江戸時代最後の年(慶応4年=明治元年)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争の第二ラウンドと言えるのが甲州勝沼の戦。新政府軍は板垣退助総督が率いる東征軍の第一陣が藩主のいない直轄地の甲府城をすばやく占拠する。なにしろ板垣退助の先祖の先祖の・・・は武田信玄の重臣だったわけで、甲州の民に人気があるわけだ。

そして遅れをとった幕府側は幕府からスピンアウトした近藤勇などを中心として、いわゆる甲陽鎮撫隊を結成し、甲府城を目指す。東西から甲府城到着競争が行われたが、1日の差で近藤チームは負けてしまい、城という拠点を持たずに勝沼付近で戦うことになり、結局江戸に逃げ帰ることになる。

競歩のように城址公園を歩き抜ける予定であったのだが、石段を何回も登り、ガイド様の説明をたっぷり聞いたため、汗もたっぷりということになる。まだ盛夏はこれからだというのに、トンボが飛び回っている。



天守台からの眺望もすばらしく、梅雨の時ではなければ、正面に富士山がはっきりと見え、さらに山裾にはリニア新幹線が東西に走ることになるそうで、相当人気の出るビューポイントになると思う。現在は、ちょうど向かって左にはレールが敷かれ、右側は未着工だそうだ。

伏見(桃山)城は微妙

2024-03-27 00:00:00 | The 城
関西旅行の最終日に何時間か余裕ができたので、伏見城を見に行くことにした。桃山にあるので伏見桃山城と呼ばれるが、もともとの豊臣秀吉による城は伏見城とよばれていた。

そして、現在の伏見城だが、竣工は1964年。城郭の位置も秀吉の伏見城とは違う。



本物の伏見城は豊臣秀吉が自分の隠居用として築城し、1594年から亡くなる1598年まで日本の政治の中心地だった。とはいえ、1596年に慶長伏見地震で破壊され、作り直されている。当時秀吉は伏見城にいたはずで、無事だったのは悪運が強いということだろう。



そして新たに作られた伏見城で秀吉に晩年が訪れ、五大老への遺言もここで行われている。もちろん筆頭大老の家康が掌を返すということになるわけで、関ケ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは鳥居元忠が1800人で守るも石田三成が40000人で襲い掛かる。鳥居方は討死するか切腹するかということで全滅。伏見城内は遺体が転がったままの状態で関ケ原の戦いに突入することになった。後に家康は伏見城の血塗りの廊下の板をはがし、家康系の寺院の天井板にしてしまう。いわゆる血塗りの天井。



1964年には近鉄グループがレジャースポットとして地域を開発した際に天守閣を造る。現在ではレジャー施設は廃止になり、天守閣は耐震性が弱く、立ち入り禁止になっている。

京都の城といえば二条城だが、現在は天守閣がない。城の本質は本丸であり天守閣ではないのは江戸城の例を見ても明らかなのだが、城=天守閣と思っている人は圧倒的に多いだろう。伏見桃山城にしても外国人観光客が圧倒的に多いわけだが。

淡路島の城

2024-03-11 00:00:04 | The 城
淡路島は佐渡に次ぐ二番目の大きさの島で、大阪湾にあって直角三角形の形で三つの角が鳴門海峡、明石海峡、紀伊水道によって本州、四国と地を別にしている。

農業と漁業に島と思っていたが、農業は三毛作(コメと玉ネギと野菜)だし、魚は高級魚が多い。昨今は観光ブームで東海岸は日の出、西海岸は日の入りを楽しめる。

江戸時代までは淡路は阿波と一体化して、江戸時代は蜂須賀藩の一部となっていた。この蜂須賀家だが、絵本太閤記の中で、羽柴秀吉と矢作川にかかる矢作橋で出会った夜盗(蜂須賀小六)と書かれていて、その後、明治時代になって知事になっても「元は盗賊」というように思われていた。秀吉の部下だったが、関ケ原では小早川家と同様、戦場で寝返り。大坂の陣の後、徳島に加え淡路も手に入れる。



さっそく洲本城に登る。標高336m。三熊山頂上に模擬天守が立つ。周囲一望できる。天守の場所は上の城といわれ、もっと下の方に下の城がある。下の方に蜂須賀藩の家老の稲田家の屋敷があった。二重支配になっていた。



幕末には徳島(蜂須賀家)は公武合体(佐幕派)で淡路(稲田家)は尊皇派と分かれていた。明治になって、大名は華族になり、大名の家臣は士族になったが、稲田家は家臣の家臣ということで士族になれないことになり、二派の間で殺戮があり、明治政府は喧嘩両成敗という激痛を与えてしまう。さらに淡路島は兵庫県に組み込まれる。



淡路島は要所であり、数々の攻防戦が行われたそうで城跡は7カ所あるし、江戸末期、明治期、昭和期と外国軍の上陸に備え砲台が置かれ遺跡になっているが、実戦で使われることはなかった。

もちろん、本州からは明石大橋から高速バスに乗り、途中で路線バスに乗り、ホテルの窓から豪快な月夜を味わうことができる。そして朝日も見事。


富山地鉄と富山城址

2023-12-18 00:00:56 | The 城
富山市内の交通に大きく寄与しているのが「地鉄」。今回の富山市内の観光でも地鉄フリー乗車券を購入して使い倒した。

ところが地鉄といえば、中国では地下鉄のこと。先日、都内で中国からの観光客に道を聞かれたときも、都内の地鉄路線図で案内した(というか、案内できなかった)。



富山の地鉄は富山地方鉄道株式会社といって、鉄道、市電、バス(含空港バス)ははを運行している。今回、鉄道は使わなかったが、市内電車とバスは6回乗車した。多くの都市が市電の塗装を全面広告に使っているは、残念ながら、収益向上になるからだろう。看板が動くわけだから効果は絶大だろう。その中でも有名なのが、県警が広告を出していて、いわゆる『パト電車』と呼ばれている。



といっても、パトカーではなく、スピード違反車を追いかけたり、銀行強盗の容疑者の護送に使ったりはしない。最近では無実の人でもパトカーに押し込んで、1日がかりで自供に追い込もうとした警察があるようだが。普通の人はパトカーには近づかない。市民を威圧しているような感もあるのだが、来たのに乗らないのも怪しいので乗車した。


ということで、富山城のこと。

富山城前史は、佐々成政が中心になる。盟友の徳川家康とともに豊臣秀吉を南北挟撃しようと企むが、老狸の家康は応じない。しかも冬の間に命がけで雪の立山を超えて家康に面会に行って帰ってみると、愛妾の小百合が美少年と不倫をしていたと讒言を耳にする。短気な成政は信じ込み、二人を惨殺してしまう。9か月後に秀吉軍に包囲され成政は頭を剃って出家するも、数年後に自刃したが、その後も富山城には亡霊がでているようだ。

現在の模擬天守閣は犬山城に模して昭和29年に建てられている。



富山城後史。富山は一般に越中の国と言われる。となりの石川県は加賀の国と能登の国。富山藩は金沢の前田家から分離して富山城に居を構えたのだが、当初、城のある場所は、加賀の国の中だった。それはまずいので、城のある場所(つまり富山市街)周辺などを越中藩にすると同時に、同じぐらいの越中の土地を加賀と交換したそうだ。つまり換地。

ところが、越中がもらった土地は加賀に渡した土地よりも生産性が低い(地味が悪い)ということになり、それが石川県より貧乏な原因と、「富山側」は言っているようだ。ある意味、親会社と子会社という関係と同じか。その生産性の低さから全国での売薬業を創意したということになっている。

高岡城は本丸橋から攻めるべし

2023-12-05 00:00:28 | The 城
新湊方面から万葉線で高岡駅に向かい、途中の「急患センター前」で降りる。そこから高岡城址(高岡古城公園)へ行く。通常はの観光客は高岡駅から高岡大仏へ行き、その足を延ばして高岡城へ行くか、行かずに土蔵造りの町並みや、踝を翻して瑞龍寺へ向かう。



高岡城へ裏口(本丸橋)から入ろうというのは例外だろう。大仏側から入る道は整備されているが、水堀にかかった橋から入ると、待ち構えているのは山道で坂道。いくさで城攻めするような道だ。雨まじりの天気で足場はびしょびしょで濡れた落ち葉で足をすべらさないように歩く。ぬれ落ち葉とは初老の人を侮辱的に指す言葉でも使われるが、すべると老人扱いだ。



そして、木立を抜けると本丸などがあった広場があらわれる。



この城も不思議な運命がある。築城者は前田利長。前田利家の正妻まつの子である。利家の人柄から言われないのだろうが利家は大変強力なDNAを持っていたようで、徳川家斉には劣るものの40~50人の子供をつくった。ただ、なぜか女子が多かったり早世したものも多い。利長は利家の後を継ぎ、百万石の加賀・越中を基盤とし、家督を異母弟の利常に譲り、金沢城を出て高岡に居を移すため隠居城を作ったと言われる。



ところが、徳川幕府は一国一城を大名に強制したので、高岡城は一部未完成のままになった。さらに城割を担当したのは加賀藩に身を寄せていた高山右近だが、彼もキリシタンの運命に身を任せ、フィリピンに国外脱出してしまう。

金沢城公園は、なんと広いこと!

2023-11-23 00:00:58 | The 城
近江町市場から10分ほど歩くと金沢城公園に着く。といっても城壁や櫓が見えてからも遠い。門を潜ると。広大な広場がある。多くの城(江戸城も)もそうだが、本丸とか二ノ丸といった木造建屋がなくなったあとを広場にしている。一面、芝生が整備されている。



旧本丸はさらに一段高いところにあったようだが度重ねる火事によって天守と同様に再建されなくなった。しかし、城についてはずいぶん見ているが、金沢城は他藩の城よりも格段に広い。大阪城よりも広いかな。さすがに百万石大名だ。



もっとも、江戸幕府開府当初、徳川家が怖れていたのは、加賀前田、仙台伊達、薩摩島津の三藩とされているが、いずれも大藩ながら城郭に天守閣を持っていない(金沢城天守は1602年に焼失)。幕府に睨まれたくなかったのだろう。江戸城も結局、火事により天守閣は再建できなくなった。



現存する建物で有名なのは、石川門。立派な門だ。門と言うのは城郭では敵の侵入を防ぐための軍事施設。古来有名な羅生門は京都の入口の門だが、門の中に人が入れるようになっている。

これだけの大施設を入場料無料にするには、石川県は裕福なのだろうか。今後、往時にあった木造建築物の再建計画が次々と実行されるそうだ。兼六園も含め、おそらく、代々の石川県知事は、予算がなくなると、秘かに引き継いでいる前田利家公の残した埋蔵金の隠し場所に、スコップもっていくのだろうか。

関宿城址を訪ねる

2023-11-08 00:00:00 | The 城
千葉県は房総半島そのもので、どうみても本州の中央にあり、外国軍が東京を攻撃するためには大きな邪魔になると思われる。ゴジラが登場するときもいつも神奈川県が狙われる。

ところが、千葉県は本州ではなく、巨大な島だ!という珍説がある。というのも千葉と茨城の県境は利根川であり、千葉と東京や埼玉の県境は江戸川であるわけで陸続きになっていない。大きな三角形の島という見解がある。

東京湾に流れていた利根川を治水のため二つに分けて銚子方面に逃がすようにしたのは江戸の最初の大工事だった。

そのために関宿(せきやど)の地点が整備され、一つの物流中継地になった。消費地である江戸へは物資が流入するのだが、関宿と佐原で荷を積み替え、中継していた。

ということで、舟の荷役作業に親分が発生するのは、神戸のとある組織と同じで、さらに関宿は江戸防衛の拠点で広大な面積の関宿城があった。面積だけでは江戸城にも匹敵し、藩主の久世家は幕末を含め4人が老中の任を務めている。

ただ、明治になって舟運から海運の時代となり、関宿の舟運の中継点としての役目は終わり、100年以上経った今、人口は減少し、城址は形をとどめていない。



その利根川と江戸川の分岐点に近い場所に模擬天守が建ち、千葉県立関宿城博物館となっている。



特に最上階の4階からの眺望はすばらしく、分岐点が間近に見えている。



本丸跡は、この博物館から南西に10分弱歩いた場所にあるが、買ったばかりの革靴で砂利道を歩く気分にはなれなかったので、遠くから見るだけにする。冒頭に書いたように城域は極めて広く、どこでも城内と言っていいわけだ。

ところで、関宿は現在は野田市に所属しているが鉄道駅はかなり遠く、東武線の川間駅からタウンバス(まめバス)を乗りついで辿り着く。タウンバスは市内の道を細かく曲がりながら走るため、方向感覚がなくなり車酔いしそうになる。

高遠城、スピードラン

2023-05-29 00:00:27 | The 城
松本城の後の行き先は、高遠城。桜の名所で、高遠小彼岸桜という赤色の強い特別な品種の桜が1500本一気に咲き開くという豪華な話だったのだが、3月末からの異常な高温によって、既にすっかり咲き終わっているということはわかっていた。



この桜というのは、明治の初めに高遠城が廃城令に従って取り壊された後、旧藩士たちが城を惜しんで桜を植えたということで樹齢が150歳ということだそうだ。



もっとも、楽しみはもう一つあって、江戸幕府の中の小事件である絵島生島事件の中心人物というべき絵島が高遠藩に送られて格子戸のある屋敷に押し込められたという事件があった。それを再建した絵島囲い屋敷があるということだった。

ところが、ツアー側が色々と気を利かして、枝垂れ桜の名所が近くにあるということを言い出し、高遠城は30分だけにして、新たに桜を見に行こうということになった。



屋島囲い屋敷は公園の奥の方なので往復する時間もないので、本丸跡と空堀の散策を大急ぎで済ませ、次に進む。

松本城再訪で気付いたこと

2023-05-28 00:00:33 | The 城
長野方面に旅行に行ったのが先月のこと、自分で行ったところで事件が起きるような気がすることが多いのだが、長野県で発生した連続殺人事件の現場である中野市だが、長野から小布施を経て、斑尾高原のホテルに向かう途中のバスで通過しているはずだ。もっともバスから降りなかったから。

さて、長野、アルペンルートの旅の3日目は、松本城へ。現存12城の一つ。実際は12城ではなく12天守閣。お城好きとしては、一応全制覇している。二回以上行ったのは、姫路、備中松山、松山、高知、一回は弘前、高岡、犬山、彦根、宇和島、松江、そして今回二度目になった松本城だった。

多くの城が解体されてなくなった理由としては
1. 徳川幕府が一国一城政策をとったため、二城目は取り壊しになった。(江戸初期)
2. 火事などで天守閣が焼失しても、本丸御殿だけあれば天守閣は要らない、と考えることが多くなる。(江戸中期)
3. 明治になり、そもそも城は不要になった。明治10年頃から、天守閣のたたき売りが始まり、多くの城は風呂屋の薪に使われたようだ。
4. そして空襲。上空からの都市攻撃の時に一緒に焼けた。天守閣を目視して爆撃機が飛来していた。

2023年


2005年



松本城に前に行ったのは2005年の春なので18年前だ。ところが、今回の再訪でまず感じたのは、前回と違う感じがあること。

2023年


その感じの違いは何のかは、よくわからなかったので、当時の画像と現在の画像を比べてみるとなんとなく感じたのは、前回より白い壁面が汚れているように見える。その結果、この城の売りである「美」を損ねているように思える。全体としては黒い天守なのだが、そこに白色が入ることで引き締まった感じだが、白が汚れてしまうとぼんやりしてしまうのだろうか。

雨のさくらか、さくらの城か

2023-03-29 00:00:11 | The 城
先週末に東総(千葉県東部)方面に小旅行。WBCの帰国記者会見が行われた成田市の外資系ホテルに泊まることになっている。(WBCとは何の関係もない。一応、軟式野球のチームではショートと投手の二刀流だったことを記録しておくが)足回りから行って自動車になる。

最初に行ったのは佐倉市。成田より東京寄り。頑張って都内に通勤する人もいる。

そして、佐倉と言えば、佐倉城をはじめとする城下町文化。現代では国立民俗博物館も城内にはある。そして千葉県を代表する桜の名所。

博物館も佐倉城も桜も見たいと漠然と思っていたのだが、直前に調べてみると桜の季節は駐車場が足りないので通行制限があるようだ。バスも城周りは迂回するらしい。しかも予定は土曜か日曜。月曜になれば花見客は激減するようだが、そうなると博物館の休館日となる。



そのすべての問題を片づけてくれたのが『雨』。桜を見る人は皆無。城を見る人は僅かにいる。博物館内(詳しくは後日)は結構な入りだった。



佐倉城は千葉県では間違いなく第一位の城だ。江戸時代の最初の頃に徳川忠臣の土井利勝が入城して以来、城主は譜代要職を務めることになる。



もっとも有名なのが幕末の老中、堀田正睦。幕府方の幕末三人衆(阿部正弘、井伊直弼)の一人で、最も開国派で、国論統一に奔走を続けるも、結局は誰からも疎まれ、佐倉城で寂しく亡くなる。



現在は城内に当時の建物は存在せず、本丸があった場所が広場になっている。


なお、佐倉城の他に本佐倉城(もとさくらじょう)というのがある。戦国時代の城で千葉氏が北条傘下に入って、城を守っていたが北条氏が秀吉に成敗され、その後、消失した。

荏田城の解明記事が・・

2023-02-05 00:00:34 | The 城
横浜市北部には、三つの城があったとされる。一番大きく史実的にも有名なのが小机城で太田道灌が攻めたことで有名。結構残虐行為があったはず。今は整備されて誰でも城址を巡ることができる。手を入れ過ぎずに古の雰囲気や亡霊感を残している。二番目が茅ヶ崎城でこれも太田道灌に関係があって、後に北条氏の時代には小机城の支城的だったとされ、こちらは整備が行き届きすぎて、現代の城のようだが、無論のこと存在しなかった天守閣を造ったりはできない。

そして、荏田城。田園都市線の江田駅の傍であり、以前の大山街道(いまは国道246号線)沿いにあり、城址の一部には東名高速が通っている。現状は、一帯が樹木に覆われている。見た感じは広葉樹と針葉樹が混じっているようにも思える。また土砂崩れの危険な傾斜地も含まれているようだ。

この城はおそらく荏田氏(江田氏)に関係した武将の出身地であるのだろうが、よくわかっていない。というのも、土地の所有者が厳重に立入り禁止にしている上、ネット上にある荏田城関係の記事を細かくチェックして、見つけ次第削除を強く要望しているらしいという事情がある。

そもそも、他人の土地に無暗に入っていいものではないが、なんとなくその地面に何か重要な事案があるのだろうか。



ところが、地元の新聞販売店が独自に文化活動をしていて購読者用のタウン誌を発行している。荏田城について、近くにある大学の名誉教授に歴史の解明を頼んだようで、かなり詳しい記事が書かれていた。今をさかのぼり、源平の時代に「荏田源三」という人物がいたそうで、源平盛衰記や平家物語によれば源義経に仕えていて1185年に25歳で討死している。

もう一つの史実では、義経を平泉で滅ぼした頼朝が1190年に京都に上洛した時に随行した武士団の中に「江田小次郎」という武士がいたそうだ。現在の荏田城のあたりの出身であるようだ。

その後、鎌倉時代には荏田城の近くに鎌倉に通ずる街道があったとされる。隣の市ヶ尾駅の近くには鎌倉往還と呼ばれる旧道があるので話は合致する。

鎌倉幕府に勤める者はある程度近くに所領を持ち、鎌倉と所領の間を行き来していたはずで、荏田城の場所に館を持っていたのかもしれない。城を家にして、鎌倉で仕事をするというところだろうか。武士の家計簿についてはあまり詳しくない。サラリーマンが通勤距離の限界の地に家を建てて「私の城」とかいうのとは、似て非なるもの。いや、似てもいない非なるものか。

廃城になったのは北条氏が豊臣秀吉に敗北した時で、それ以来400年以上が過ぎている。

ところで、冒頭の方で触れたように、荏田城のことを紹介されることを、強く忌避していると考えられる所有者の了解を得てから活字にしたのだろうか。私には関係ないが。

西尾城を歩く

2022-10-23 00:00:59 | The 城
三河は家康の出身地でもあり、戦国時代の遺構が多いが東海道の南に下った三河湾に近い場所は少し異なった事情の場所だ。そもそも三河湾は伊勢湾の中に三河湾があるというような複雑な地形で渥美半島という長い半島があって、その内側にあり海面はいたって平穏だ。

海岸部には吉良温泉郷があり、リゾート地になっている。その途中にあるのが西尾市。小京都といわれ、茶葉の栽培がおこなわれ抹茶関連のスイーツも多数。



観光事業の一環だろうか、もとの城郭である西尾歴史公園内の広場は天守台とされ、天守閣建設の予定があるようだ。ただ、道路と同じ高さに天守閣を立てても、威厳はなく、本気で作るなら堀は必要だろう。平地の城には、たいがいは水堀がある。松本城とか、今治城とか。



そしてこれらを含む地域全体は吉良荘といわれ、あの吉良義央、通称吉良上野介の所領だった。西尾城との関係をいうと城主は小刻みに変わっていたのだが、城主が管理する土地とは別に3200石分の領地を高家旗本である吉良家が所領としていた(その他上野に1000石があった)。地元では、有名人である吉良義央を名君として褒めたたえていて、京都の公家筋との関係で小京都と言われたり、抹茶栽培が進み、黄金堤という立派な堤防が完成したことになっている。そういうのは甲府では柳沢吉保が褒めたたえられていることに通じる。実際はよくわからない。堤防というのは片側が立派にすると反対岸が決壊するわけで、常に争いの種になる。

公園内には無人の櫓があり、中に入って下界を眺めることができる。無料だが、その対価はやぶ蚊に襲われることだ。

三河の旅は豊橋から

2022-10-19 00:00:08 | The 城
先週末から三河方面に観光旅行。特に各種割引を使うことなし。

横浜に住んでいるので、三河への入口は豊橋から。ところが豊橋は新幹線停車駅だが、大部分は「こだま号」。一日に何本か「ひかり号」が停まる。両者の違いは30分ほどある。「こだま」は途中で、何度も「追い越され停車」をするので、かなり遅い時もある。また、車内販売もなく、そのため帰路に困ったことになるが、それはその時。



まず、JR豊橋駅を降りて、路面電車にのる。行き先は市役所前駅。豊橋の城は吉田城と呼ばれている。江戸時代は豊橋ではなく吉田といっていた。東海道五十三次の吉田宿だ。この東三河地区は戦国時代は今川・徳川・武田が争っていて要衝だった。

街の整備を行ったのは池田輝政。武闘派であるとともに実務家であった。1585年に13万石だった岐阜城より15万2千石の吉田城に入場。大きな町割りを計画し、実行を始めていた。

ところが江戸時代が始まると、姫路城52万石と大幅アップで横滑り。ついに豊橋の都市開発は未完ということになる。

城はまさに東海道に面していて、防衛能力は低い。江戸幕府は池田藩のような有力大名を御三家の中に置くのは危険と思ったのかもしれない。

真里谷城跡、早々と下城

2022-10-02 00:00:22 | The 城
千葉県の中南部(上総国)は丘陵地帯が広がっている。といって高い山があるわけでもないが、あまり人が住んでいない場所が多い。千葉県は海岸の近くは住みやすいわけで、あえて丘陵地帯の奥に住む人は少ないのだが、なぜか規模の小さな城跡が多い。

というのも室町時代の中期になると関東は群雄割拠となり、上総でまず根を下ろしたのが真里谷(まりやつ)武田氏。武田信長という強そうな人物が、1456年に真里谷の地に真里谷城を定めた。どうして、こんなに人里離れたところに城を作ったのかは謎だが、単純に推測すると、人が住んでいなかったからといえるのではないだろうか。どうみても山林で、付加価値があるわけではない。21世紀前半の我々だって行くのが大変だ。鉄道駅からは3キロだが、道は曲がりくねった上り坂。ナビ付の車でも道幅が気になる道だ。



実は、近くのゴルフ場によく行くのだが、最近、途中の道が混むため、いつもよりも30分前に出ると、1時間以上前に着きそうだったので、ちょっとだけ道を変えれば行ける。しかし、事前にネット上の経験談を読むと、登ってから降りるまで45分だが、足が滑りやすいので注意が必要と、転倒した人からの忠告が書かれていた、つまり登り始めると、ゴルフには間に合わない。どこかでUターンが必要になる。



ということで、入り口にあたる「木更津市青少年キャンプ場」の駐車場に辿り着くが、そこには残念な表示板があった。つまりキャンプ場は休場中なので中に入らないようにということ。もっとも誰もいないのは明白なのだが、他人の敷地に無断侵入すればいいのだが、何しろ、滑って転ぶと谷底ということになりかねない。

全体の雰囲気を感じたので、いきなり下城ということになる。

なお、この地は戦国時代の終わりごろには北条氏と里見氏が争うことになり、多くの血が流れることになる。

無断侵入して崖から落ちてもキャンプ地が休場していれば、発見する者もいないはず。500年以上前の無名の戦死者と枕を並べることになる。100年後に考古学者に発見され、「室町時代には虫歯の治療も行われていた」という論文が発表されるだろうか。

因果応報の大坂城か

2022-09-01 00:00:56 | The 城
現在、『豊臣大坂城(黒田慶一著)』を読んでいる。著者の黒田氏は考古学的観点から城の研究をしている考古学者だ。



そして大坂城周辺の発掘により、従来言われている大坂城の変遷を確かめながら新たな発見をしているようだ。

今回のブログ「因果応報の大坂城」というタイトルは歴代の大坂城を眺めた時に思いついたのだが、有名な豊臣大坂城の前は、石山合戦で有名な石山本願寺の城だった。

それに腹を立てた織田信長が、明智光秀に焼き払うことを命じ、嫌々ながら光秀は僧兵を石山城に中に追い詰めた上、火をつけて焼き払った。

実は、その焼けた土の痕跡が残る場所の上に作ったのが豊臣大坂城。縁起でもないわけだ。天守閣が実在した期間は30年。

そして、豊臣大坂城は30年で焼け落ちる。大坂夏の陣だ。そしてその天守ごと埋め立てて城を作ったのが徳川秀忠。これが徳川大坂城。そして、この徳川大阪城天守閣は数度の火災を起こし、39年後に燃え落ちてしまった。城そのものは長く残り、徳川家茂は場内で亡くなった。最後の将軍である徳川慶喜は薩長軍との戦いで、多くの兵を置き去りにし、大坂城から軍艦で逃げ帰った。

そして昭和になり現在の大阪城が鉄筋コンクリートで復元した。1931年に竣工しているの、今年で91年。そういえばゴルビーも91歳で亡くなった。

江戸時代までの「大坂」の表記が「大阪」に変わったのは、「坂」という文字は「土に返る」という不吉な意味だからということはよく言われる。