呪いの最終章か、丸亀城高石垣崩壊

2018-10-10 00:00:33 | The 城
台風の連発で全国至る所で崖が崩れているが、丸亀城の高石垣が派手に崩れた。

実は、丸亀城の天守閣は、全国の12しか残っていないオリジナルの天守閣のわけだ(388歳)。しかも、その高石垣は、日本でも指折りのスケールを誇るわけだ。

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過去に二度、城に登っているのだが、2014年に行った時の画像を少し逆光補正してみた。

次に今回の崩落個所だが、テレビの画像からおこしたのだが、私の撮影位置から写してもらいたかった。後半で触れるが、現在の天守閣が完成したのは1660年なのだが、さかのぼること70年ほど前、生駒親正という大名の時代に丸亀城は完成している。生駒氏は豊臣家の家臣で、戦功を重ねた結果、讃岐(香川県)を一括して17万6千石を与えられていた。そして、高松城の他に丸亀城も造ったわけだ。

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そして、運命の関ヶ原の戦いの時には、生駒親正本人は出家を装い西軍を支援していたのだが、お家の為に息子は東軍に味方していた(要するに、どっちが勝ってもいいようにしたわけだ)。その結果、讃岐の国の所領を守ることができたわけだ。ただし、徳川幕府による1615年の「一国一城令」により、高松城だけを残し、丸亀城の廃止が決まった。

ところが、よせばいいのに、猿知恵を使って、城郭をそのままにして周りに樹木を並べて隠そうとしたわけだ。(実際に高松城は海に面した平地で、治世面では好都合だが戦闘用としては無防備に近い)さらに。生駒騒動というお家騒動があり、改易になり、出羽国へ転封となる。さらに、讃岐は東西にバラバラとなり西側(丸亀)は一つの国となって、1643年に山崎家治を藩主として迎えることになる。そして、一国一城ということで、再び丸亀城が立ち上がることになる。

この山崎家治がどこから来たかというと、実は天草藩。天草と言えばキリスト教信者の天草四郎を中心に、年貢の厳しさに農民たちが公権力と戦って敗れた島原の乱が1638年のこと。

なぜ、年貢が厳しかったというと、島原や唐津の大名が、自分の格付けを上げるために石高を二倍にして幕府に申告していたからだ。そのため年貢も二倍になる。たまたまキリスト教信者が多い場所だったから、幕府はキリスト教の取り締まりという名目にしてしまう。

島原の乱では蜂起側は37,000人が全滅(内通者1名を除く)。幕府軍と合わせると40,000人が亡くなった。江戸幕府最後の戊辰戦争の死者は10,000人前後と言われる。島原の乱の次に国内で大量の戦争死者を出したのは1945年の沖縄戦で、約200,000人と言われる。

そして、島原の乱の後、天草(富岡)藩の藩主になったのが、山崎家治。徳川家による大坂城の新築を担当した石垣造りの名人と言われるが、あくまでも建物の土台としての石垣を作る(建築工事)のがうまいわけで、土木工事としての石垣は未知数。

しかし、新人大名の最初の勤務地が島原とは荷が重すぎた。元はと言えば、石高をごまかしたことから重税になったのだが、幕府としては認めたくないわけで、結局、藩の経営はうまくいかず、ちょうどバラバラになった丸亀に3年後の1643年に人事異動することになる。天草は御天領となり、石高問題はうやむやになる。37,000人の死者の怒りは山崎の背中に張り付くわけだ(怨念1)。

そして、山崎は丸亀に築城を決意し、見ての通りの絶壁に石垣を作り始める。そして石垣完成の日、山崎家治の胸には大きな不安がわきあがってくる。それは、この石垣工事の責任者だった羽板重三郎のことだった。難攻不落と思われるこの石垣を、彼はあたかも猿のように自由に石垣の上で移動しているわけだ。つまり大した石垣ではないと第三者に思われてしまうわけだ。

そして、山崎は重三郎に対して、古井戸の探索を命じ、井戸にもぐったあと、その上から大量の石を投じ、殺害してしまったわけだ。(怨念2)

山崎家治が丸亀に来たのが1643年。しかし、天守閣まで完成するには17年かかっている。まず、家治は、石垣が完成してまもなく1648年に亡くなり、息子の俊家が山崎家を継ぐ。ところがその俊家は3年後の1651年に亡くなり、その息子の治頼が3歳で家を継ぐのだが、6年後の1657年に享年8歳で亡くなっている。その結果、お家断絶は免れるも改易となる(怨念3)。

そして、1658年に京極高和が6万石大名として丸亀藩は落ち着きを取り戻すわけだ。石垣が崩壊した一昨日まではだが。


しかし、この壮絶な怨念が石垣の崩壊ということで終結するのだろうか。画像を見ていると、この高石垣が無残に崩れてしまうと、その上に立つ天守閣は無事なのだろうかと疑問が湧いてくる。というか、見れば見るほど、疑問が確信に変わっていくわけだ。
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大垣城で武器を手にする

2018-02-21 00:00:22 | The 城
東海道線を西から東へと移動中に「そうだ、関ヶ原に行こう」と思ったのだが、ちょうどJR関ヶ原駅に着く数分前に、急に天は暗くなり、大粒の雨が降り始めた。なにか、私に見せたくないものがあるのだろうか。となると、代替案として二駅先の大垣にいって駅から近いところにある大垣城にでも行くかということにした。

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有名なのは、駅から徒歩10分ほどと行きやすいこと、それに平地だ。関ケ原の戦いの時に西軍出陣の本拠地となったことが有名だ。残念ながら終戦まで半月という時期に空襲により焼失。もう一つ残念なのは昭和三十年代に鉄筋コンクリートで再建された折、観光上の理由で元の大垣城ではない別の城のデザインが参考にされたのだが、「それはないだろう」ということで平成時代に、焼失前の大垣城に近づける改修が行われた。一方で木造再建の声も大きいようだ。

小ぶりな天守の意味は、平地の城なので籠城することは考えられてなく、したがって武器庫の大きさも大きくなかったからだろうか。奇抜なデザインではなくシンプルな感じである。西軍は、大垣城だけではなく石田三成の本拠である佐和山城でも激しく戦い、そして壊滅した。この城にも佐和山城にも「お宝」は発掘されていない。大垣-関ヶ原-近江佐和山のラインのどこかに埋められているのかもしれない。

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特筆すべきは、城内の武器の展示。いずれも持ち出せないように紐がついているが。まず、弓。思いのほか思い。弦を引くのに相当の力が必要だ。弓の名人として名高いのが那須与一。源平合戦の中の屋島の戦いで活躍。彼が平家の舟に立てられた扇を射抜いたとされる場所に行ったことがある。彼が乗った石も現存している。

そして源為朝。そして東海一の弓使い徳川家康。実際に弓を引いてみると家康の見方も変わってくる。腕力に自信があり、かつ長身だったということになる。狸オヤジのイメージとは矛盾する。

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そして鉄砲。これも本物らしく、重い。武士は大変だ。

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さらに槍。これは大変だ。凶器になり得る。展示品の先には刃は付けられていないが鉄の板がついているだけだが、もともと何人もが一緒に突いて使うのだから恐怖の武器だろう。弓と鉄砲と槍。どれがもっとも惨忍かというと、槍なのだろうか。
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茅ケ崎城再訪

2018-02-06 00:00:59 | The 城
茅ケ崎城は自宅から歩いていける二つの城のうちの一つだ。もう一つは荏田城といって、個人所有の土地を完全封鎖しているため詳細不明。茅ケ崎城も前回行った時には整備中ということで中に入れなかった。ということで出直して再チャレンジ。

その前に、茅ケ崎という地名だが、多くの人が知っている有名な茅ケ崎は東海道線の茅ヶ崎駅のあたりで、有名人の別荘が多く並んでいる高級住宅地だが、茅ケ崎城のある茅ケ崎は、横浜市の北部である。奇妙なのは、東京の五反田から荏原を通って神奈川県に入る道路の中原街道というのがある。川崎の中原区を抜け、横浜市に入ってまもなくで、この茅ケ崎城になる。荏田宿という宿もあり大山街道と中原街道が合流し分岐する場所だ。この中原街道は終点が茅ケ崎市になっている。つまり、同じ道路に2ヶ所同じ地名があるというのは、なかなか理解しにくい。

そして、戦国時代というのは一般に北条早雲以降、武田、上杉、北条、今川といったところが争うように歴史小説は教えるのだが、関東では、上杉家の内輪もめが大きなポイントになる。その他、茨城の結城氏や千葉の里見氏が陰謀をこらして勢力を伸ばしていた。

で、14世紀後半のスーパーヒーローが太田道灌。山吹の和歌をよんだことで文武両道と評価は高いが、実際には近く訪れるつもりの小机城では、敵に勝ったあと、捕虜1000人以上を皆殺しにしている。

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その太田道灌にも縁のあるのが茅ケ崎城。14~15世紀の城だが、当時の戦い方は広い関東平野を遊軍的に部隊が移動して戦っていた。ということで、立てこもって籠城するような守備力はなかったのだろう。城の乗った丘陵は高さが40mである。その位置から丘の下を眺めても、今も昔も一流感のない家が並んでいる。

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城郭整備後は空堀が通路になっていて高台が三か所に分かれている。兵士たちは城の周りに住んでいたそうで、住居があったという証拠はない。

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発掘された礎石が意味するのは、倉庫群が立っていたということで、それ以上のことは判明していないようだ。


そして、大問題が城内の井戸。茅ケ崎城は城郭の外側に居住地区があるのだが、それでも
城内に井戸がないと、いざ戦いという時にどうにもならない。どこかにあるはずと探してみると、やはり井戸の跡は見つかったのだが、通常の古城では「古井戸」というのは、重要史跡として貴重に扱われているのだが、茅ケ崎城ではそうではないわけだ。「トイレ」のすぐ横なのだ。
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二条城、すべて德川家のためだったが

2018-01-23 00:00:14 | The 城
以前、かなりの文化人の方と話していた時に、お城の話になり、いわゆる残存天守閣12城の話になり、東の方から(弘前、松本、犬山、高岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、高知、松山、宇和島)なのだが、その方が「おかしい!二条城を忘れている」と強く言い張ったことがあった。まあ、有名な方に抵抗すると、後で食事代の支払いの時に得をしないので、お茶を濁した結果、割り勘になったのだが、単に「御城=天守閣」との誤解があるわけだ。

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ある意味、日本の城の中でもっとも立派なものは二条城であるのも事実であるが、18世紀に天守閣は火災で焼失し、再建はされなかった。江戸城の天守閣だって17世紀の中頃に焼失した後に再建されなかったのだから、当然と言えば当然。大坂の陣ではすでに大砲もどきまで出現しているのだから、城を枕に戦っても勝ち目がないことはわかっていた。

とはいえ、前に二条城に行ってからかなり長い時間が経過していて、昨年におバカ大臣が学芸員をののしったのも二条城だったし、以前のイメージと比較して自分の脳の老化程度を確認しようという無駄な抵抗もあった。

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しかし、残念ながら、以前のイメージと同じであったのだが、年を重ね、お城鑑賞に関する無駄な知識を山のように詰め込んでいるため、それなりに細部は面白い。

その前に由来だが、德川家による德川家のための城なのだ。完成したのは1603年。家康が征夷大将軍になり江戸幕府が始まった年である。もちろん天下普請といって、全国の大名から寄付金を調達。ふるさと納税と異なるのは返礼品がないこと。

そして、慶応3年(新暦では1868年)12月9日、この城でもっとも大きな二ノ丸御殿の大広間で德川慶喜は全国40藩に対し、「大政奉還したいが、どうか」と諮る。独断ではなく、各藩に意見を聞くとは、将軍とは思えない弱気である。異論はあったのだが、他に名案なく征夷大将軍の退職願を出したわけだ。(ところがすぐに受理してもらえなかった)

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城内の本丸エリアは築城初期の面影が残り、門にしても戦闘用である。天守閣の跡は石垣が整備されているが、手入れが良すぎる。本丸御殿は現在整備中であるが、これは江戸時代の物ではなく、御所内にあった桂宮邸を明治期に移転。二の丸御殿とのバランスは良くないと言ってもいいだろうか。

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ところで、二条城は深く15代にわたり德川宗家と関係していたのだが、その後の宗家はどうなっているのかといると、現在は18代の德川恒孝氏(1940年生)。息子さんは家広氏(1965年生)で第19代と決まっている。しかし、ベトナム人の奥様との間にお子様がいないと言われているため、20代についてはまったく決まっていないそうである。まだ52歳なのだから。あれこれ頑張ればいいと思うのだが。
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和歌山城再訪

2017-11-13 00:00:36 | The 城
20年近く前だが、取引先の外資系企業の方(年上)と和歌山県へ出張したことがある。目的地は和歌山市街ではないのだが、その方は南海和歌山市駅につくやいなや、タクシーに乗り、和歌山城に向かったわけだ。ずいぶん駅前にサラ金が多いなと思っているうちに吉宗公も住まわれていた和歌山城に到着。そして直ちにきつい石段を登り始め、天守閣に辿り着いたら即、入城券を買って城内の階段を上り始め、心臓が止まりかける。

これが、私の御城探訪のきっかけなのだが、それ以来、和歌山城には行っていなかった。要するに和歌山に行くのが億劫なのと本物の天守閣は空襲の犠牲になったため再建されたものであるからである。もちろん城は天守閣だけではなく石垣や庭園や水濠や城下町の配置など見るべきものは多いが、そういうものを味わうには逆に再興天守が邪魔になるときも多い。

といっても、オリジナルは城造りのスペシャリストの藤堂高虎であるし、その後、徳川将軍8代目から14代目までが紀州藩の流れである。

今回は、JR和歌山からの出発。不思議なことに市のHPでは、城まではタクシーで行くように強く勧められているが、少し調べるとバスが沢山走っている。普通のバスに5分ほど乗ると門の前に到着。

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そしていつものように堂々と正面から登っていくと、石垣群が見えてくる。やはり藤堂高虎の初期の作品なので、石垣は改良型の野面積で小さめの石が単純に積み重なっている。よくある例だが戦災や合戦で城が焼けた場合、石垣が黒く変色しているのだが、やはり空襲で激しく燃えたことが窺われるように石垣の上部半分程度は表面が黒く汚れている。

ただし、以前来た時はもっと急な坂だった感じがあったのだが錯覚だったのだろうか。天守閣内も階段がきつかった記憶があるが、特にそうは感じない。城を見過ぎたのかもしれない。それによって感動が薄れるというのは困ったものだが。

また藤堂高虎に築城を発注したのは秀吉の弟の豊臣秀長だが、完成した時には別の城に住むことになってしまい、新居は別人の館となり、その後、薩摩藩の海路での東上を防ぐために紀州徳川藩がストッパー役として入城。

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最上層より眼下には一級河川の紀の川が見下ろせる。実は日本地図を見ると、徳島の吉野川と直線状でつながっているのだが、遠く西は熊本から大分を抜け四国を走り、東は茨城県までつながる中央構造線そのものであることがわかるだろう。一億年の歴史を持つ川なのだ。

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城内には、徳川家の記念品はあまりなく、戦火に消えたのだろうと推測がつくが、城とはまったく関係ないが明治初期の郵便配達人が所持していた『郵便保護銃』なるピストルが目を惹いた。郵便物を襲撃する事件が多かったそうだが、明治の初めから為替制度は普及していたのだから札束を郵便で送る人は少なかったはずだし、何を運んだり奪ったりしていたのだろうか。

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帰りは別の坂を下って降りると、そこはかなりの急坂で、20年近く前、急坂と感じたのはこの坂を上ったからに違いないと気付き、私を誘ったお城マニアの魂胆がやっとわかった。

出口の案内はタクシー乗り場に誘導するためのものなので、別の出口から城外に出て、バス停を探すと、城の反対側であって、一汗かくことになった。
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赤松広秀の祟りか

2017-09-07 00:00:49 | The 城
関東から行こうとすると、結構、秘境感があり、山頂の本丸跡に到達した時には疲れ果てている感のある場所にある竹田城だが、昨年訪れた時に感じたのは、外国人観光客が多いことと、相応に観光地になってしまったことだ。

この城は時に雲海の中に沈む「天空の城」という面と、足で攻略するのが難儀な事が二つの特徴だが、天空の城の絶好の撮影スポットは、隣の山の上なのだ。ではクルマで行けばいいかというと、関東からは非常に遠く、また竹田城の頂上にはクルマでは登れない。

最近のハフィントンポストの記事で、一本松が枯れたと書かれていて、原因は観光客だと断定されてしまった。

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天空の城「竹田城」の一本松、 観光客急増で枯れる
 「天空の城」として人気を集める竹田城跡(兵庫県朝来市)のシンボル的な存在だった「一本松」と呼ばれるアカマツが枯れていたことが分かった。9月1日、ハフポスト日本版の取材に朝来市文化財課の担当者が明かした。
 担当者によると8月28日、樹木医が検査したところ枯死していることが確認されたという。
一本松は城跡の「南千畳」と呼ばれる場所にあり、城跡のシンボル的存在だった。城下町を一望できる撮影スポットだったため、周囲を歩く観光客も多く、幹周辺の土が踏み固められてしまったため、衰弱していたという。6月から周辺の見学通路を立ち入り禁止にしており、2018年1~2月の冬季閉山中に伐採する方針だ。
 担当者は「城跡内には他にも樹勢が衰えた木が多いため、枯れないように見学通路を再考して、観光と自然が両立できるようにしたい」と話している。
 神戸新聞によると、樹齢は推定100年以上、高さ約15メートル。石垣の上にそびえる姿は麓からもよく見えた。しかし、雲海などの人気で急増した観光客が周辺を踏み歩き、2011年ごろから地表の草が失われて土壌が露出。根もむき出しになって樹勢が衰えていたという。



心が痛いが、近くを観光客が歩くので根が傷んだということだそうだ。記事の画像は、枯れてしまって赤変した松の画像が無残だし、城郭の全体像がわからないので自分のアルバムの中のとっておきの一枚を貼っておく。

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ところで、松は赤くなってしまったのだが、この城を築いたのは、何の因果か赤松広秀という大名なのだ。

関ケ原の戦いでは負けた西軍に属していたのだが、猿知恵を働かせ、同じ西軍仲間が逃げ込んだ鳥取城を攻略し、東軍の味方に早変わりしたのだが、鳥取市街地に火を放ったことを家康にとがめられ、切腹させられた。せっかくの鳥取攻撃が、ただ働きになった。

鳥取城はかつて秀吉に包囲され、餓死者無数の悲惨状態に陥り陥落したのだったが、その祟りで赤松広秀の運命が尽きたのだろうが、今頃、赤松が恨みを晴らしたのだろうか。
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犬山城のしゃちほこ、落雷で破損

2017-08-04 00:00:00 | The 城
犬山城の天守閣のしゃちほこが落雷によって破損したそうだ。なにより天守閣が炎上しなくてよかったと言わなければならない。

日本には中世に建てられたオリジナルの天守閣が12本しかない。(といっても、弘前と高知は比較的新しい)

その中でも、美しい天守閣とそうではない天守閣があってそれなりにファンはいるのだが、天守閣の最高層階からの眺望と言えば、犬山城の右に出るものはない(左に出るものもない)。12ヶ所とも行っているので信じてほしい(信じなくてもいいが)。

もう一つの特徴は、この城の所有者はごく最近まで個人だった。それも元城主(大名)である成瀬家の所有だった。といっても個人が何代も国宝の天守閣を所有するのは至難の業であり、今は公益財団法人の名義になっている。

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画像を確認すると2005年に登城している。

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まず、折れたしゃちほこだが、屋根の南北に一つずつ立っていたのだが、北側の木曽川に近い方が被雷したようだ。通常の入城は南側になるので、北側のしゃちほこを撮影するのはかなり難しい。ちょうど北側の最上階から木曽川を写した画像があって、よくみると画面の右側に緑色の線が見える。これはしゃちほこからの銅線のように見える。

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一方で、こわれたしゃちほこの画像を探していると、しゃちほこをネジで中の木材に取り付けていたところがあった。ネジは緑色なので銅製なのだろうか。さらに下に向かう銅線との接続が切れているようにも見える。

しゃちほこは陶器で電気を通さないが、形状的には尻尾の部分がとがっていて落雷の危険がある。それならもっと避雷針に徹底しておけばいいのではないだろうか。中途半端に銅製の小さな金属ねじを使ったので、逆に危うかったのではなかっただろうか。

天守閣が燃えなかったことについてはシャチホコが身代わりになったということに尽きるだろう。
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明石城は交通の要所だったが

2017-05-30 00:00:49 | The 城
明石という地名は源氏物語にも登場するほど古くから有名であり、おそらく現在の明石駅付近だけを指すのではなく、もっと広い範囲を指す言葉だったのだろう。

山陽道の要所であり、内陸へ入るのもまた淡路島に向かうにも、また瀬戸内海の入口(北が明石海峡、南が鳴門海峡)でもあり、海上交通、商業、軍事的にも重要な場所であり、江戸時代の初めには、大阪と姫路の間の守備の要と思われていた。

ところが、実際には江戸幕府の権力が強すぎて、反抗する大名などいなかったこともあり、どうも6万石から10万石規模ということもあり、様々な親藩大名が次から次へと城主になり、大部分は、明石を去ったあと、落ち目になっている。出世城ではなく没落城だったのだろうか。

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場内は四つの隅にあった櫓のうち二つと天守閣予定地の天守台が残るが、天守台は前面にある櫓にかなり隣接していて、まったく不自然だ。現地から帰ってしばらくして思いついたのだが、山陽路から見る参勤交代の大名たちが、徳川親藩の力を過剰に意識するように、天守閣がより大きく見えるように道に近い場所に設計したのではないだろうか。

実際には天守台の上には天守閣は作られなかった。江戸城の天守閣が、早い時期に再建されなかったことも原因の一つだろう。

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石垣は、しっかりしているように見えるが、石と石の間がすいている場所が多い。阪神淡路大震災のあと、崩れた石を積みなおしたそうだが、たくさん石垣を見ている目で言うと、少し不安を感じる。

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水堀にはたくさんのミドリガメ(アマゾンアカミミガメ)が生息していて、一部は堀をよじのぼり、天守台のそばで観光客の残したオニギリを食べていた。
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清洲城天守は美しいが

2017-04-09 00:00:20 | The 城
先日、2013年に公開された「清須会議」という映画を観たが、本物の清州城を見に行きたくなった。清須会議とは、織田信長が明智光秀の謀反で殺された後、秀吉を中心とした弔い合戦の末、明智勢力が撲滅され、それでは次の織田家の家督を継ぐのは誰にするかという議題について、秀吉と柴田勝家が争う。(清洲と清須は実際には同じで、混用されているが、戦国時代は主に清洲で江戸時代は清須、現代はまた清洲がよく使われるが市の名称は清須だ。)

実は、もう一つの清須会議がある。時代はもっと下って、秀吉が亡くなり家康と石田三成が関ケ原で戦う直前に、東軍の先鋒部隊がここ清洲までやって来た時に、軍勢の中が疑心暗鬼になる。というのも先鋒部隊に続く後方隊が江戸からやってこないわけだ。

つまり、家康の陰険な性格は東軍の武将も承知済み。家康の捨て駒に使われているのではないかと疑い始める。裏で家康と三成が手を握っていて、東西挟み撃ちされるのではないかと、この清洲城で軍議が始まる。


ところで、清洲は織田信長の居城として有名で、桶狭間の戦いで、戦国時代の「信長の野望ゲーム」のトーナメント1回戦に勝った時も、この城から出陣している。しかし、静岡から名古屋まで東海道沿いはおおむね平野であり、堅固な城を築くことが困難で、清洲城もさして大きくない五条川しか守るものがない。

ということで、清洲城に向かうのだが、事前研究では最寄駅はJR清洲駅と名鉄新清洲駅となっていて、名鉄の方が行きやすいと書かれていた。確かにそうかもしれないが、実はJR清洲駅から行き、名鉄新清洲駅から帰るのだが、JR清洲駅からは道は複雑だが、親切すぎるくらい行き先表示板が充実していて、道に迷う心配はないが、名鉄線からは案内板がないので、特に帰り道に名鉄駅を目指すと、相当不安になる。

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そして、現代の清洲城は、きわめて美しい。信長が後に築いた安土城とイメージが重なる部分がある。すっきりしたフォルムと最上階の手すりの朱色、観賞用には最適だろう。しかし、大きな問題が二つあるようだ。

一つ目は、その美しいフォルムだが、実際の清洲城は家康の命により1609年に取り壊しになり、その材木が名古屋城に転用されている。残念ながら、歴史上の重要建造物なのに、屏風や絵巻物などの視覚的データが残っていない。ということで、想像の産物なのである。ある意味、だからこそ、現代人が見て美しいのかもしれない。

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二つ目は、天守閣の位置が実際とは異なること。これは実際の場所がわかっている。礎石のあった場所は円形に低木が植えられているが、土饅頭みたいで縁起が悪い。ではなぜ、その場所に天守閣を再建しなかったかというと、この清洲城の城郭エリアだが、中央に東西に新幹線が走り、河川工事の結果、五条川が南北に貫くことになってしまったわけだ。しかも、実際の天守閣跡の近くには市役所関連施設があることにより、もっとも使いにくく空いていた場所に復元されたのだろう。

天守閣内には、思いのほか織田信長の偉業がデジタル化されていて、武器、武装なども豊富だ。陣太鼓もあり、入館者は好きに叩くことが認められている。お客様ファーストだ。実際に景気よく連打してみたのだが、これからの人生で、どこに向かって出陣すべきかまでは、思い浮かばない。

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そして、家康が岡崎城を10年で出たように、信長も10年で清洲城を離れ、美濃(岐阜県)に向かって進撃を開始する(トーナメント2回戦)。
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岐阜城訪問して思ったこと様々

2017-04-02 00:00:06 | The 城
東西往復を百回以上していても、岐阜駅で降りたことはなかった。東海道線の駅だが、新幹線は通っていない。となると名古屋から在来線に乗っていくのだが東西往復ルートからはかなりはずれてしまう。最近、好き勝手な時間があるので、新幹線の米原と名古屋(あるいは豊橋)の間を、在来線を使って、岡崎城、清洲城、岐阜城に寄ってみた。

岐阜城は岡崎、清洲にくらべてかなり立派ということしか知らずに、岐阜駅からバスで岐阜公園にあるロープウェー乗場に向かう。ロープウエーで天守閣というと、岩国城もそうだったが、岐阜城もはるかな山の頂上にかすかに天守閣が見える。城の全体像からいうと、長良川に面した場所に城郭(今の岐阜公園)があり、その裏山というのが高い山で、その上に天守閣が立つ。通常、城主は平地にいたに違いないだろう。

築城当時は稲葉山城といわれて、その後、蝮一家の斎藤家が居城とするが、内部抗争や織田家との争いで朽ち果てる。織田信長は、この地をいたく気に入り、天下の中心という意味の岐阜と名付け、バリバリと進軍を始めるが、天下統一の前に明智光秀に寝首をかかれる。

その後、織田家や豊臣家が城主に座るが、いずれも負け組になってしまう。韓国の大統領府みたいなものだ。さらに明治になり、自由党総裁の板垣退助が城内にあった公民館で演説を行った後、暴漢に刺され、軽症だったにもかかわらず「板垣死すとも自由は死なず」と言った(現在の自由党とは関係ない)。

結局、関ケ原の戦いの後、家康により廃城の扱いとされる。

家康は、五街道を決めるにあたって、岐阜を東海道ではなく中山道にしてしまい、とばっちりで、東海道は宮(熱田)から海路で桑名に向かうことになってしまう。よほど岐阜に嫌な思いがあったのだろう。

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ロープウェーを下りても、そこから足元の悪い道を歩き、やっと天守閣に到達するが、いわゆる復興天守。ここも元の姿はよくわからない。天守閣の最上階に登ると、きわめて眺望がよく、眼下に長良川とその河川敷が開ける。

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下で調べていたところでは長良川の河川敷には「高橋尚子ロード」というのがあるそうだ。地元の高校を卒業したそうだ。全国には、高橋尚子ロードは数ヶ所あるのだが、いずれも本人と縁のある場所だけである。地元のスポーツ界の大御所の考え方と共鳴するからといって、講演料や夜の酒宴に目がくらんで次々に名前を張り付けたりはしないようだ。

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しかし、岐阜城しかり、安土城しかり、岩国城しかり。山の頂上にまで石垣と城壁、天守閣を築き、それをまた攻め落とすということが行われた結果、死体累々の上に内戦が終わり、江戸幕府が開府したわけだ。
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岡崎城は、あまり家康に好意がないのかな

2017-03-22 00:00:00 | The 城
家康にとって岡崎城は生家であるのだが、実は今川家への人質プレゼントにされてしまい、実際、今川義元にしてみれば、織田信長を一潰しにして、次に三河一帯を占領すれば徳川なんか不要ゴミのはずで、腹でも切らせてしまおうと思っていたはずだ。信長が今川家を叩いた結果、混乱に乗じて家に帰れた。

そして、また織田信長が天下統一を図ろうという話になり、選択肢なしで同盟を結び、浜松城で、東の要として武田勢と戦うのだが、大敗するも生き残りしぶとく次のラウンドに進む。

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そういったかなり必然の中で、岡崎城に戻ることはなかったから、あまり地元は家康公に肩入れしないのだろうか。確かに江戸時代以来、「家康公の生誕の地」という特別扱いを受けて、城下町であり宿場町という扱いを受け、賑わっていたのだが、それだけのことなのかもしれない。5万石にしては、城内は広く立派で、元の天守閣は明治6年に解体されたが、運よく写真が残っていて、ほぼ江戸時代初期の外観の通り復元(鉄筋コンクリート)されている。

余談になるが、竹千代(家康)を人質にした今川家だが、桶狭間の戦いで義元がまさかの討死となったあと、家を継いだ氏真だが、能力も人望もなく家は衰え、ついに信玄と家康の両者より駿河から追放されるのだが、奥様の実家の北条家に厄介となる。その後、恥さらしにも人質にしていた家康の家臣となり、その結果、江戸時代は高家旗本となる。天皇家の饗宴係。吉良上野介や織田家の子孫などとも同列の身分である。

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さて、城内には家康公の銅像も立つ。元首相佐藤栄作氏に似ている。駿府城にも銅像はあるが、顔つきは似ていない。が、いずれも寝業師の顔と言える。

ところで、名鉄の岡崎公園駅から歩いたのだが、見事に道に迷ってしまった。ほぼ、城への案内看板はない。城の防備のためなのだろう。
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赤穂城を訪れる

2017-03-19 00:00:36 | The 城
先日、「忠臣蔵」の研究書を読んで、少し考えることがあった。よく言われているように、第一の事件として浅野内匠頭による「殿、城内でござる」という刃傷事件があって、将軍綱吉が烈火のごとく怒り(天皇の使者を接待する役目を無視して凶行に及んだ)、切腹&お家取り潰し=赤穂城明け渡しと藩士全員の失業を決定。

その後、第二の事件として敵討につながっていく。

失業した藩士から見れば、いかにバカ殿でも敵討でもしなければ人生の意味が見つからないということもあったのだろう。一方で、敵討に喝采を送ったのは江戸市内の町人で、喝采の意味の中には綱吉政治への批判が含まれている。一般に綱吉は犬殿とかチビ殿とか言われ、不人気将軍だったのだが、人道主義的な善政の部分もあるわけで、さらにややこしい。関ケ原から100年経って、武士の世から町人の世に変わる中で綱吉は城内の闇討ちや敵討など大嫌いだったのだろう。

そこで、私が気になっていたのは、そもそも忠臣蔵騒動について地元の赤穂ではどう取られているのだろうという点。


ということで、やや行くには不便な場所なのだが、播州赤穂へ行った。

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播州赤穂駅からまっすぐ南に1キロ歩くと水堀と櫓が見えてくる。戦国時代末期には、城の先がすぐ海で、海水を堀に引き入れていたはずだ。

そして、今立っている建物は、いずれも新しく白壁も美しい。しかし、広大な空地が広がっていて、庭園の工事などが少しずつ続けられているようだ。また、天守閣を建てるための天守台と言われる石垣が修復されている。江戸城と同じで、石垣を組んだ段階で天守閣は作らなかったようだ。

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城に隣接して「歴史博物館」があり、入館して展示を見ている間に確信したことがある。

地元では、内匠頭の愚行を認めていないのだろう、と思えるわけだ。

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博物館の一階で最も大きなコーナーは「赤穂の塩」といわれる製塩業の発達のこと。要するに浅野家は製塩業を重要産業と位置付け、技術開発をはじめとして近代的工業化をしたわけだ。そして、内匠頭の先代の時代に日本一の生産地になっていた。その結果、各地に塩が販売され、藩はやっと五万石の対面を保つだけの資産を得ることになり城内の整備も行い、次の事業の財源にもなった。

それは上水道システムで、神田上水らと並ぶ日本有数の水道網を作っていた町中どこでもきれいな川の水が飲めたわけだ。

ところが「殿ご乱心」のあと、結局浅野5万石が森2万石になってしまう。要するに領地が少なくなった。したがって貧乏になったわけだ。


忠臣蔵コーナーは2階にあるのだが、記載事項は歯切れが悪い。観光地化するためには重要な史跡だが、実際は嬉しくもない話だ、ということなのかもしれない。
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会津若松城で考えたこと

2017-01-05 00:00:56 | The 城
会津若松城は遥か数十年前に訪れたことがあり、今回は再訪。驚いたことに、東北本線郡山駅からJRではなく高速バスに乗ると、会津若松城の近くの合同庁舎まで連れて行ってもらえる。ただ、合同庁舎といっても霞ケ関の国交省のビルなど思い浮かべてはいけない。単に2階建ての建物だ。

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前回のイメージは、古色蒼然とした悲壮感のあふれる復興天守閣が一新され、なにしろ瓦の色が健在だった頃の赤色に修正されている。そして、観光化が進んでいるように思えた。

まず、外観がとても美しい。やや気がかりは明治初期の現物の写真より現在の復興天守閣はスリムに見えるのだが気のせいなのだろうか。

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城郭内部は多くの天守閣と同じように博物館になっていて、この城の歴史がパネルにまとめられている。

たまたま近郊に住む夫婦と思われる二人が子供に歴史を教えていて、「薩長にやられて、城が燃やされた」と言っていた。よほど恨みがあるのだろう。実は戊辰戦争の時には燃えなかった。明治になって城が陸軍の兵営になり、天守は無用の長物となり、解体されたわけだ。教えるなら正確な方がいい。

さらに、展示パネルを読むと、幕末について、「もともと薩摩と会津は、手を組んで長州征伐を行ったのに、いつの間に薩摩は我々を裏切り、長州と連合した」ということになっている。実際はそんなもので、張本人は坂本龍馬である。正確に言うと、薩摩藩の中の攘夷派が敗退し、開国派に変わり、同様の選択をした長州と手を組んだということなのだろう。

75年前の真珠湾攻撃も水に流そうというのに、会津藩は150年前のことを恨んでいるようだ。

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再び合同庁舎付近に戻ると、会津若松市の市役所であるとともに大熊町の役場の一部でもあるようだ。

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会津ラーメン。東京にある会津ラーメン店の味と同じかどうか確認してみたのだが、同じであったと書いておく。
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仙台城址には天守閣はなかったのだから

2017-01-04 00:00:00 | The 城
仙台城は別名青葉城といって石垣の下には青葉川は悠々と流れている。仙台の駅前から行こうとするとなかなか交通機関がなく、以前訪れたときは、長い坂道を歩いた記憶がある。今回は運良くルートバスという観光地巡りのバスがある。仙台駅より行はいいのだが帰りは遠い。時計回りのバスしかないのだが、反対周りも必要と思う。

しかし、仙台城が観光地化できないのは理由がある。天守閣がないわけだ。本丸など、城のもつ行政的な機能は十分だが、戦闘設備である天守閣は築城した伊達政宗が不要と判断したのだろう。省略されている。二代目の忠宗が二ノ丸、三ノ丸を増築し大藩に相応の城となる。

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江戸時代初期にはまだ徳川家の権威が確立されてなく、特に伊達、前田、島津の三藩の動静には幕府が注意していてお庭番と称するスパイに内偵させていた。余談だが松尾芭蕉も伊賀藩に由来するスパイであり、奥の細道にしても東北各藩の偵察旅行であり、特に仙台藩の領内では、スパイの常として緊張感を続けていたようだ。松島旅行なんかまさにスパイ旅行だ。

ところが明治以降になり、仙台城はよってたかって痛い目に合う。まず、陸軍が使うといって本丸を破壊。次に火災発生で二ノ丸、三ノ丸が焼失。B29が爆撃して残っている江戸時代の建物がほとんど焼失。そして戦後進駐軍が接収し、完全に破壊する。最後のとどめが東日本大震災で、石垣が崩壊。

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城内の解説書では、『平和な城として完全に保存して明治時代に至ったが、心なき俗吏によって破却せられ・・・』となっている。明治政府に反感があるということなのだろう。

本丸周辺の建物の礎石は復元されていて、各部屋の名称まで特定されているのだが、入り口のところにある部屋には『首実検の間』と、気持ちの悪い名称がつけられている。首実検といっても、首をつかって化学実験をするわけでもなく、「クビ!」と言い渡してどういう反応をするのか実験するわけではなく、戦闘で殺した相手の首を並べて、これは誰のものかと特定していく部屋だ。あまり使われなかったと思う。
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安土城を攻略(2/2)

2016-12-02 00:00:01 | The 城
途中で、信長の墓と天守方向に道は分かれるが、信長の墓がここにできたのは後世のことである。天守に向かうとさらに石段は険しくなるが、空が見えるようになり、そこが天守跡なのだ。

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山の上に台石がいくつも積まれているのだが、そこは、地下室なのだ。天守台と見える部分は単に地下一階の床であり、一階の大きさは縦も横もこの2倍、つまり面積は4倍にもなる。

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そして眼下にはお約束通り琵琶湖が望めるが、当時は山の下まで琵琶湖が広がっていた。

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安土城だが、高さは秀吉の建てた大坂城を超え、床面積は大坂城の方が大きい。後に江戸城天守閣を建てるときは、安土城より高く、大坂城より広くということになった。

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江戸城の再建や、名古屋城の建て替えが話題になっているが、筋からいえば安土城ほど美しい城はないのだから、この城は再建されないのだろうかと思われるかもしれない。

色々と制約が考えられるのは、まずこの土地は私有地であるということ。摠見寺(そうけんじ)という寺院の所有物で、寺院の安全確保体制の中で、なんとか登ることができるわけだ。さらに登るのが、厳しすぎるわけだ。400段ものオリジナルの石段である。観光地にするにはロープウェーしかないだろうが、簡単にできる場所がないし、建設資材の搬入も困難だ。さらに安土市は近江八幡市に吸収合併されたので、安土城だけの開発ではなく近江八幡とセットの観光化が求められる。しかも東京や名古屋のような金満な都市じゃないわけだ。

そして下り階段は、曲がりくねって狭く、足を滑らすと滑落し、信長たちの仲間に入ることになるのだが、安全な場所では足を滑らすことが多い。ぬかるみの中に一本の材木が置かれ、平均台のように歩く必要な場所もある。とにかく、まったく油断できないわけだ。

歴史家ではないので、勝手なことを言うと、明智光秀の謀反(本能寺の変)だが、光秀は天下を制覇したかったのではなく、安土城が欲しかったのではないか、と感じたのだ。秀吉と利家の邸宅が組み込まれていた城には、すでに光秀の場所がないわけで、よほどの暗愚でなければ自分が粛清される運命だったことは見えていたのだろう。

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