横浜歴史博物館で開催中の「風景を伝える、持ち帰る絵はがきあれこれ」展。
![ehagaki0](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/c1/f9fbb019e544b972fda6a85a04025dc4.jpg)
なぜ、絵はがきの展覧会が横浜で開かれているかと言えば、ルーツが横浜にあるから(というか、そういうことにして展覧会が開かれた)。明治維新に始まる洋風化運動の中で、横浜はその先頭に立っていた。横浜港があり、外国人居留区があり、横浜と東京間には高速鉄道があった。
そして、横浜にきた内外の観光客の楽しみの一つが、「写真撮影」だった。いくつかの有名写真館があり、外国人カメラマン、日本人カメラマンが多数働いて、カメラを担いでお客探しをしていた。
![ehagaki1](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/5f/71cd9dbb44837d565e9afe5c76917641.jpg)
その後、一見客をカモにする商法は長続きしなくなり、かわりに現れたのが「横浜写真」なるもの。さすがに日本人の考えることはガラパゴスである。明治10年~20年代の写真は当然モノクロだったのだが、それに彩色することにしたわけだ。疑似カラー写真である。ただし、その場ですぐできるわけでもなく、いくつかの有名な風景や街の風物などを撮影したあと、彩色していく技法である。
そして、人気を博した横浜写真も明治30年代になりさすがに落ち目になる。そこで登場したのが、「横浜絵はがき」だそうだ。
一方、郵便制度の面でも、封書ではなく葉書が登場したのが明治6年のこと。当初は「はかき印紙」と言われたそうだ。形は厚紙の二つ折り。厚い紙を製造する技術がなかったので、二つ折りにして強度を保ったそうだ。その後、明治8年になり今のような一枚の厚手の「郵便はかき」になったそうだ。
しかし、日本の絵はがきの発展を支えたのは、実は、軍国主義だったらしい。陸海軍に徴兵で組み込まれた兵士たちが実家を安心させるために、軍隊生活がいかに楽しいものか、官製の軍隊絵はがきを送っていたようだ。そういう展示もある。
そして、実は戦後、一気に旅行ブームが訪れたそうだ。ようするに民衆が抑圧された青春を取り戻そうと、国内各地を歩き始めたわけだ。その時、訪れた各地の風物を持ち帰ろうと、10枚セットの絵はがきとか買ったわけだ。だから、旅先から知人に送るという目的のほかに、アルバムがわりという効能があったわけだ。カメラで写すのもいいが、モノクロだし、カメラマンみたいな腕前じゃないし、まして摩周湖に行ってもめったに霧は晴れない。
そして、現代。人々は旅行に行き、そこで撮影し、数秒後に知人たちに送信してしまうわけだ。『絵はがきの危機』。しかし、なぜかどこの観光地に行っても、いまだに絵はがきは売られているわけだ。
ところで、本展覧会では全国47都道府県から絵はがきを集め展示しているのだが、夏休みの課題で展覧会の感想文を書こうとしている少年たちの眼にとまると、ちょっと・・というのがあるかもだ。
千葉県を代表する「外房(がいぼう)」という絵はがきセットの表紙は、「海女」数名が並んで被写体になっているのだが、内数名の方は、本来隠すべき部分をそのままにしているわけ。本職なのだろうか、あるいはモデルを起用したのだろうか。(もちろん、立ち止まって見るわけにはいかないし、すでに交換されてしまったかもしれないので、念のため)
![ehagaki0](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/c1/f9fbb019e544b972fda6a85a04025dc4.jpg)
なぜ、絵はがきの展覧会が横浜で開かれているかと言えば、ルーツが横浜にあるから(というか、そういうことにして展覧会が開かれた)。明治維新に始まる洋風化運動の中で、横浜はその先頭に立っていた。横浜港があり、外国人居留区があり、横浜と東京間には高速鉄道があった。
そして、横浜にきた内外の観光客の楽しみの一つが、「写真撮影」だった。いくつかの有名写真館があり、外国人カメラマン、日本人カメラマンが多数働いて、カメラを担いでお客探しをしていた。
![ehagaki1](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/5f/71cd9dbb44837d565e9afe5c76917641.jpg)
その後、一見客をカモにする商法は長続きしなくなり、かわりに現れたのが「横浜写真」なるもの。さすがに日本人の考えることはガラパゴスである。明治10年~20年代の写真は当然モノクロだったのだが、それに彩色することにしたわけだ。疑似カラー写真である。ただし、その場ですぐできるわけでもなく、いくつかの有名な風景や街の風物などを撮影したあと、彩色していく技法である。
そして、人気を博した横浜写真も明治30年代になりさすがに落ち目になる。そこで登場したのが、「横浜絵はがき」だそうだ。
一方、郵便制度の面でも、封書ではなく葉書が登場したのが明治6年のこと。当初は「はかき印紙」と言われたそうだ。形は厚紙の二つ折り。厚い紙を製造する技術がなかったので、二つ折りにして強度を保ったそうだ。その後、明治8年になり今のような一枚の厚手の「郵便はかき」になったそうだ。
しかし、日本の絵はがきの発展を支えたのは、実は、軍国主義だったらしい。陸海軍に徴兵で組み込まれた兵士たちが実家を安心させるために、軍隊生活がいかに楽しいものか、官製の軍隊絵はがきを送っていたようだ。そういう展示もある。
そして、実は戦後、一気に旅行ブームが訪れたそうだ。ようするに民衆が抑圧された青春を取り戻そうと、国内各地を歩き始めたわけだ。その時、訪れた各地の風物を持ち帰ろうと、10枚セットの絵はがきとか買ったわけだ。だから、旅先から知人に送るという目的のほかに、アルバムがわりという効能があったわけだ。カメラで写すのもいいが、モノクロだし、カメラマンみたいな腕前じゃないし、まして摩周湖に行ってもめったに霧は晴れない。
そして、現代。人々は旅行に行き、そこで撮影し、数秒後に知人たちに送信してしまうわけだ。『絵はがきの危機』。しかし、なぜかどこの観光地に行っても、いまだに絵はがきは売られているわけだ。
![ehagaki2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/6f/01525c3f732fe870bdf2109126d098a8.jpg)
千葉県を代表する「外房(がいぼう)」という絵はがきセットの表紙は、「海女」数名が並んで被写体になっているのだが、内数名の方は、本来隠すべき部分をそのままにしているわけ。本職なのだろうか、あるいはモデルを起用したのだろうか。(もちろん、立ち止まって見るわけにはいかないし、すでに交換されてしまったかもしれないので、念のため)