六歌仙図(渡辺始興)

2024-06-16 00:00:26 | 美術館・博物館・工芸品
アーティゾン美術館でブランクーシ展を観たのち、収蔵品展を回っていると、掛け軸になっている『六歌仙図(渡辺始興)』を見つけた。江戸時代18世紀の作。



苦労して、図と六歌仙の固有名詞と突き合わしたところ。上から僧正遍照、小野小町、在原業平、大伴黒主、文屋康秀、喜撰法師となる。

六歌仙とは905年に上梓された古今和歌集の中にある序文の中に特に作者を指定して評価を受けている6名の歌人のこと。主席編者は紀貫之なので、彼の主観的選抜なのだろうが、不自然なことがある。

古今集の序文は六人を褒めていないわけだ。内容的には、和歌は、柿本人麻呂と山部赤人という二大歌人の時に発達とし、次に前述の六人を評し、その他大勢という構造だが、ほめているともいえるのは僧正遍照と小野小町(といってもシニカルな褒め方)であとの4人は、心が入っていないとか、心はあるが言葉が少ない(つまり下手?)とか、商人のような服を着ているとか、薪をかつぐ山人のようとか、どうみても六歌仙の仙の字にはふさわしくない。

さらに、その六人の他は名前を上げるほどではない、とつれない。

ところで、在原業平はプレーボーイで有名だし、僧正遍照は小野小町のボーイフレンドで文屋康秀は小町に近付こうとして失敗している。

つまり、古今集もわからないことだらけだ。

ブランクーシ 本質を象る

2024-06-09 00:00:41 | 美術館・博物館・工芸品
アーチゾン美術館で開催中の『ブランクーシ展(~7月7日)』へ行った。美術館の旧名はブリッジストーン美術館。ビル建て替えによってなくなるかと思っていたが、以前にもまして立派な美術館となった。

ところが、地下鉄京橋駅の指定された番号の出口から外にでたところで、見つからずウロウロすることになった。別の外国人夫婦もウロウロしていた。なにしろ入場時間指定チケットなので、時間を過ぎたら入れない。前払い金の1800円は戻ってこない。14時00分から15時30分の枠を予約していて、京橋駅には15時頃到着。そもそも時間枠は1時間30分ごとに区切っていて、14:00-15:30の次は15:30-17:00。1時間半もあると思われるかと思うが、現地到着が1時間半の枠の後ろの方だと、最初からギリギリになる。遅れてもなんとか交渉できないかと思うが、デジタル入場券を読み取る装置の外側には人間はいないわけだ。



余談は終わりにして、ブランクーシは日本よりも圧倒的に欧米で有名だ。日本だとイサム・ノグチが彫刻を始めた頃にパリでブランクーシの助手をしていたことがあるという話は有名で、確かに相似している部分はあると思う。『イサム・ノグチ(ドウス昌代著)』という感動的な伝記の中では、ブランクーシが金属ばかり削っていて、(粉を吸い込んで)体に良くないと思って、アメリカに戻ったということだったと思う。

展示会場のほとんどの場所で撮影可能ということになっている。ただ、多くの人(半分は欧米系外国人と思われる)が作品を四方から撮影しているのでなかなか大変だ。



作風についてだが、通説では、パリで制作を始めた頃に、短期間アフリカ大陸へいって現地の美術品を見て回ってアフリカ的なネーティブな感性を取り入れたといわれるのだが、以前から少し違和感があったのは、アフリカといっても広いわけで、短期間で全アフリカがわかるわけでもないし、という点。



果たして、現在は作風の起源について諸説があるようで、出身国のルーマニアではルーマニアの先史時代の文明に影響されていると言われている。岡本太郎と縄文式土器のような着想だ。また一説ではアフリカではなくゴーギャンがタヒチで描いた絵画を見て、タヒチのネーティブが影響しているともいうらしい。また元々ブランクーシの脳の中にある想像力が生んだものということも言えるかもしれない。



確かに会場に掲げられた彼の年表の中にはアフリカに関する記載は見当たらない。本当はアフリカに行ったことにして、どこかで愛人と遊んでいたのが最近発覚したのかもしれない。



日本ではあまり有名ではないにしても、展示の目玉として、豊田市美術館所蔵の「雄鶏」と横浜市美術館に所蔵の「空間の鳥」という二大代表作が同時に見られる。「空間の鳥」は横浜美術館では広すぎる場所に置かれているため小さく見えるが、今回、ここでは壁の角のような場所で赤幕を背景にしていて、見せ方がうまいと思った。撮影もできるし。



ところで、展覧会の副題の「本質を象る」だが「象る」を読めるだろうか。「ぞうる」とか「しょうる」ではない。「かたどる」と読む。すぐに忘れると思う。

『神々の草原』『賛歌 樹木』

2024-06-02 00:00:45 | 美術館・博物館・工芸品
横浜市鶴見区のサルビアホールで開催されていた『山内若菜予感展』を拝見。

『神々の草原』は3m×9mと大作。太古の人間が洞窟の壁に描いたような雰囲気が漂うが、あるいはシャガールの作品に度々登場する空想の動物群のような存在なのだろうか。

『賛歌 樹木』も同サイズ。広島の被爆地で生き残った樹木の中を象のような動物や幽霊たちが彷徨っている。



生きる者への讃歌なのだろうか、いや、生き残った者への讃歌というべきかな。

会場ですぐに感じたのは、数十年前に観た香川泰男展(練馬か埼玉か)。前の大戦でシベリアに抑留された経験を基に多くの作品を残されている。孫娘ではないかと思うほど同じような引力を感じた。

実は、彼女(山内氏)のプロフィールを読んでさらに驚いたのは、2009年から「シベリア抑留を忘れない文化交流」を始め、ハバロフスクの極東美術館で展覧会を開催されている。

今のロシアには、内心はまったくがっかりされていると想像。

2021年には東山魁夷日経日本画大賞入賞されているのだが、なぜ日本画と呼ばれるかといえば和紙におそらく日本画用の絵具で着色しているからだろう。

多くの方が思っているだろうが大きな公募型の展覧会(県展とか市展とか)は洋画の部屋と日本画の部屋と分かれているのだが、あまり意味はないと思うがたぶん審査員がなんらかの都合により分かれているのだろう。


「東芝科学未来館」一般公開終了

2024-05-26 00:00:15 | 美術館・博物館・工芸品
川崎駅西口の正面にある東芝ビルにある東芝未来科学館の一般公開が2024年に公開終了となる。公開しないミュージアムとはどういうものかよくわからないが、事実上の閉鎖なのだろう。

東芝は5月23日、同社の企業博物館「東芝未来科学館」(神奈川県川崎市)について、2024年6月29日に一般向けの公開を終了すると発表した。   事業内容の変化にあわせた見直し  東芝科学未来館は1961年、東芝小向事業所内に「東芝科学館」として開設。その後、2014年に現在の同社川崎本社内へ移転し、「東芝未来科学館」に名称を変更している。


東芝のことは弊ブログでも過去に5回取り上げている。

2007年8月26日 東芝科学館

2007年8月27日 田中久重の歴史

2017年3月14日 大阪天満宮と大塩の乱と東芝

2022年3月29日 浜芝浦駅にも行って見る

2022年9月4日 洗濯機売場から未来館へ(東芝未来科学館のこと)

結局、ほとんどなくなるような方向なのだろう。当事者の社員たちはすでにモノを作る会社ではないと思っているのに、ものづくりを期待する人たちがあれこれやっているように見える。

牛久シャトー、産業遺産だが

2024-05-05 00:00:42 | 美術館・博物館・工芸品
茨城県の牛久は、今でこそ大仏で有名だが、それまではワインで有名だった。

牛久シャトーも明治時代からワインの醸造所として勝沼(旧祝町)とならぶ産地だった。
2007年には経産省の近代化産業遺産として認定され、2020年には文化庁の日本遺産としても登録された。



ただ、富岡製糸場や八幡製鉄所などとは大きく違う点がある。官営ではなかったことだ。



明治維新のあと、欧米化に舵を切った大日本帝国政府は鹿鳴館など作ったのだが、ワインの国産化も図り、1877年(明治10年)に勝沼に大日本葡萄酒株式会社を設立し、若手の有志をフランスに送り出す。そして1889年に甲斐産商店が設立され川上善兵衛の元に生産を始めたのだが、なかなか上手くいかなかった。ワインは日本人の口に合わなかったわけだ。

そして困った川上はワインに蜂蜜や漢方薬を混ぜ、甘口に仕立てることでなんとか経営を続けることになった。



ところが、民間人の神谷伝兵衛による牛久醸造所では、初めから甘味ワインを作ることにしていた。1903年(明治36年)に牛久醸造所が設立されている。

ということで、官の勝沼、民の牛久ということだったが、この二つの産地の経営がかなり異なっていたことが、その後の運命を分けていたと考えられる。

勝沼では、ブドウの生産と醸造を分業化することにより大規模化が進んだが、牛久は神谷伝兵衛の個人会社として一貫製造を進めていったため、大型化が進まなかったのだろう。

「食と農」の博物館

2024-04-14 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
東京農業大学に花見に行った後に、大学付属の博物館に行く。



よく東京農業大学(農大といわれる)と東京農工大学(農工大)とを混濁している方がいるが、東京農業大学の方は私立大学で、農工大は国立大学。



その違いが感じられるのが、農大(私立)の博物館。一階の展示の多くが微生物関連。麹菌とかカビ類の研究が多い。全国の発酵食品の関係者のご子息が本大学に集まっているそうだ。

それで、話題の紅麹の関連研究があるのかと思っていたが、そもそも私立大学は有用な方向の研究ばかりしているわけだ。この十年来、日本国を支配していた政権の政策で、金儲けできる研究しか助成しないということで、まして私立大の基礎研究は崩壊感覚。

発酵も腐敗も同じ現象なのに、人間に有用なものは発酵ということになっている。ただし、良い腐敗と悪い腐敗を言い分けているのは日本だけらしい(そう書いてあった)。



気になったのは、一匹のマウスの標本。

二母性マウス「かぐや」と名前がついているそうで、2003年の生まれ。母親が二人で父親がいない。母親の遺伝子が父親の染色体の印をもつように遺伝子組み換えをして、もう一匹の雌マウスの卵子に核移植して誕生したそうだ。解説に寄れば、「父親がいらない」ではなく「父親が必ず必要である」ことが証明された、となっているのだが、どうしてそういうことが言えるのか、理解出来ない。

もっとも、人間の生殖に必要なのは、「父親ではなく、精子である」という事実は、多くの男性が、うすうす知っているわけだ。それでは科学ではないが。



博物館の2階は、鶏の標本がずらりと並んでいる。そういえば、博物館の入口の前には「鳥小屋」があって。各種の鶏類が小屋の外に出たい出たいと入館者にアピールを続けている。

作者がわかる

2024-04-07 00:00:02 | 美術館・博物館・工芸品
作家が誰かわからない版画(エッチング)が一枚あった。銅版画で、71/100 「ある教会」と鉛筆で余白に書かれていて、読みにくいサインもある。100枚刷った中の71枚目。



数年前、画像やサインを元にグーグルレンズで調べたがヒットしなかったが、今回は画像そのもののレンズ検索でヒット。まったく同じ作品が海外の画商から出品されていた。さらに同じではないが似たような作品(教会シリーズにとどまらず)も並んでいた。

渋谷栄一さんという版画家だった。

次に、渋谷氏を検索すると、最初に「渋沢栄一」が登場するのだが、除外すると、古典日本文学の研究者が登場。源氏物語から藤原定家あたりが専門とのこと。もしや同一人物?二刀流の人は世間に大勢いて、誰かのおかげで「二刀流」ということばが、最近、市民権を得ている(通訳とギャンブラーとか)。

源氏物語や百人一首と版画というなら組み合わせは最高のような気がするが、たぶん違うと思う。教会という題材は似合わないだろう。

そして、あれこれやっていると、2011年に札幌市で他界された版画家だったことが解る。享年82歳。パリで多くの技法を学び、また多くのスケッチを行っていたそうだ。


しかし、AIはすごいと思うが、中には絶対に別の作家と思われる作品も混じっているわけで、犯罪捜査で、カメラ画像と「顔が似ている」とイージーに逮捕されたりしないのだろうか心配。

中村屋サロン美術館を拝見

2024-03-03 00:00:19 | 美術館・博物館・工芸品
新宿方面に所用があり、スキマ時間に中村屋サロン美術館に寄った。中村屋ビルの3階。地下にはカレーで有名なレストランがあり、新宿からは地下道でつながっている(地下鉄側の地下道)



所蔵品の中で最も有名なのは「女(荻原守衛作)」だろうか。絶作と言われる。正確には石膏型が完成したところで病没している。最初に鋳造された作品は国立近代美術館が所蔵しており、新たに石膏原型から鋳造されたもの。なお、この石膏原型は重要文化財に指定されている。



体の中にらせん状の動線が感じられるところは、マイヨールの作品とも共通している。

多くの文化人のサロンになっていた中村屋だが、創業者が中村姓だったわけではないそうだ。創業者は相馬愛蔵・黒光夫妻。普通なら相馬屋になるだろう。

実は当初開業したのが本郷の東大の道路を挟んで向かい側にあったパン屋だった。中村屋というパン屋が廃業するということで、居ぬきで開業したのだが、その際、店名をそのままにしていたそうだ。その後1909年に店舗移転。地下鉄の始発駅だった新宿を選んだそうだ。

花園神社は、もともと花園だったが

2024-02-26 00:00:58 | 美術館・博物館・工芸品
新宿付近に行った時に、立ち寄ったのが花園神社。多くの都内の寺社が貸ビルを建てて風情をだいなしにしているが、今のところ古典的な神社の姿のままだ。



新宿には元々、桜で有名な高遠藩内藤家の江戸屋敷があったが、1699年に甲州街道の第一番の宿場町ということになる。それまでの第一番は高井戸だったが、東海道の品川、中山道の板橋に比べ日本橋から遠すぎて不便ということで開設された。ところが、19年後の1718年には宿場指定から外されてしまった。享保の改革の一環で、宿場機能よりも岡場所機能が充実してしまって吉原筋からの取締り要請の声に押されたという説もある。

そうなると、町は徐々に寂れてしまう。そもそも甲州街道を通る人は少なかったのだ。復活開始は国鉄や地下鉄の駅の開業まで待つことになる。

一方、花園神社は徳川氏が江戸に入った1590年より前に、今の伊勢丹のあたりに吉野(奈良)から分かれてきたと言われる。先住者はそれなりに強いもので、幕府による江戸市中の区画整理によって、場所が僅かに移動して、徳川尾張藩下屋敷の一角を与えられた。現在の場所である。

ところが、その場所には美しい花が咲き誇っていたそうで、それが花園神社の名称に繋がった。神社に花園を造ったのではなく、花園を整地して建造物を建てたのかも知れない。現在でも花園は見当たらない。

土地柄、家内安全とか縁結びとか万事融通とか病気・学業・合格など身の回りのさまざまな具体的な願望を祈願する平和的な神社で、世界平和とか選挙必勝とかは荷が重いだろうか。

各種犯罪行為の成功祈願は、住所氏名と具体的な行為を記入して絵馬に書いておくといいかもしれない。

ついでだが、

花園ということばは、本来はプラス方向の単語のはずだが、最近は「頭の中が、お花畑」というようにネガティブな使われ方をしている。そういうことを言う人間ほど軽薄というしかない。花の命は短いわけで、花園を管理するというのは並外れた努力や精神力が必要なわけで、全国各地にある「花のテーマパーク」等を訪れる際は、そういった裏方の人たちのことを思い起こしていただきたいと、思う。

大名茶人 織田有楽斎展

2024-02-25 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
サントリー美術館で開催中(~3/24)の織田有楽斎の歿後400年展は、相当の準備の末に開かれたのだろう。今では二刀流人生は珍しくもないが、400年前に大名と茶人の二本立てはすばらしい。



まず、展示の最初にあるのは、壊れた瓦だ。京都府の重要文化財。文化財と言うか遺跡と言うべきかもしれない。あの日本史上、最大のクーデターとも言える本能寺の変で焼け落ちた建物の瓦だ。今もって、動機不明、信長の遺体不明という事件だ。

織田有楽齋は武家としての本名は織田長益。織田信秀の十一男。つまり織田信長の弟。本能寺の変の時は、信長の嫡男の織田信忠とともに二条御所に籠ったが、明智軍に包囲され、信忠は自害したが、長益は脱出。このため卑怯者と呼ばれたが、その後は豊臣、徳川家の間を行き来し、調停案の模索を継続したが、功を奏せず隠居して茶道に励む。師匠は千利休。

日本史の中ではアンチヒーローの方に属するのだろう。

茶器収集は大量に行い、孫の織田長好(茶人:三五郎)が亡くなる時に遺品整理簿を残していて80人以上の名前の下にお宝の分配一覧表が残っている(展示されている)。今でいう遺言状のようなもので、遺産を80人以上に配ったことになる。結構、交際範囲がわかって、おもしろい。

武士としての展示品には多くの書簡が含まれるが、戦国時代末期を生き抜くために、手紙作戦を行っていたということだろう。

ともかく、見どころが多すぎて時間がいくらあっても足りない感じだ。

カナガワビエンナーレ国際児童画展

2024-02-18 00:00:03 | 美術館・博物館・工芸品
2023年7~8月にJR本郷台駅近くのあーすぷらざで開催され、その後、神奈川県内13カ所で巡回展示されている『カナガワビエンナーレ国際児童画展』の9回目の会場である川崎市国際交流センターで拝見することができた。



59か国からと日本国内の外国人学校からの作品の中で優秀作が展示されていた。少し気づいたのは、年齢。5歳と14歳というのがポイントのような気がした。着想や技術の上達は、5歳のところと14歳のところに変曲点があるのだろうか。大賞受賞の「母犬と子どもたち」はタイ人の5歳。非の付けようがない。



それと、タイの子どもは特に絵が上手いように思った。

会場の川崎市交流センターは東横線の元住吉駅から徒歩10分程度だが、途中のブレーメン通り商店街は、なかなか趣と賑わいのある店が並んでいて、寄り道時間が少し必要だ。

瀬戸内のメルヘン(写真展)

2024-02-11 00:00:05 | 美術館・博物館・工芸品
六本木のFUJIFILM SQUAREにある写真歴史博物館の企画写真展として光の魔術師と言われる緑川洋一氏(1915年-2001年)の企画展(~3月27日)が開かれていた。岡山県邑久郡出身ということで、夢二と同郷。影響を受けているのかもしれない。

主に瀬戸内海を活躍の場として、さまざまな技法を駆使して、現実の世界をメルヘンの世界へと昇華されている。つまり、ほとんどの写真家とは全く異なる路線のようだ。



写真の技法には詳しくないが、多重露光、長時間露光、モンタージュ、特殊なフィルム現像、フィルターワークを駆使していたそうだ。

本業は歯科医だったそうで、それだと好きな時に撮影に行くわけにはいかないし、天候の問題もある。なかなか芸を磨くのも難しかったのではないだろうか。歯を削っているときに、新たな撮影技法を思いついたりしたことはないのだろうか。

パンフレットの画像である黄色と黒と赤の細い横縞の写真を見て、カメラで撮影したという話を信じる人がいるだろうか。

セルカン・ギュネス展(写真展)

2024-02-04 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
六本木のFUJIFILM SQUAREで開催中の『WITHIN』セルカン・ギュネス写真展を観てきた。

奇妙な人名のようだが、トルコのイスタンブール生まれだが20歳の時にスウェーデンに移住し、現国籍はスウェーデン。トルコにも寒い場所はあるだろうが、現在、氏はスウェーデンの北部、ラップランドに居住しているそうで、光の乏しい(nordic light)地方で氷河に浸食された殺伐な景色の中に僅かに草木などで感じられる季節の移ろいを撮影しているようだ。



正しいスペルは、Serkan Gunes のuの上に点を2つ(ドイツ語でいうウムラウト)つけるようだが、英語での個人サイトがある。経歴を読むと、写真家を目指したのはスウェーデンに移住してラップランドに住み始めてからのようだ。

少し読んでいると、極北だけではなく、ライオンのいる草原でも撮影したり、航空機から撮影などしている。ラップランドには被写体が少ないからなのかもしれない。ただ、人間の姿は作品群の中にはないので「人嫌い」ということなのかもしれない。

なお、Coachingのページを見ると、1時間150ユーロで技術指導をしてもらえることになっている。

対応範囲は、
「撮影技術」「機材の選び方」「プリントの方法」「展覧会の開き方」「写真集の作り方」、さらに一番すばらしいのは、「写真家になる方法」まで、追加料金なしに教えてもらえるようだ。


和菓子の<はじめて>物語(2)

2024-01-22 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
和菓子といっても、純粋な和菓子と言うのは、古代の日本から存在する団子類が代表のようだ。黍団子(きびだんご)が代表。

その後、中国(唐)の時代に砂糖を使ったものが輸入される。

さらに、鎌倉時代には禅宗というキーワードでお菓子や郷土料理が中国の南部から流入。

その後、南蛮貿易で長崎でポルトガルやオランダから入ってくる。

そして、明治以降は最初は欧州から、また、第一次大戦のドイツ人捕虜(青島在住の菓子職人)からもバウムクーヘンなども流入。

この五段階流入というのが学説になっている。



その中の四番目の南蛮渡来菓子の一つがカステラ

カステラというのは、ポルトガル語でスペインのことを、カスティリアということからだそうだ。なんとも複雑。スペイン語ならエスパーニャだから、前々違う。スペインではなくスペインの一部なのかな。1600年前後に長崎の代官が作ったそうだが、天火(オーブン)がないので苦心したし、卵の白身を泡立てるということがなかったようで、もっと硬い物が焼き上がったはずとのこと。本格的な長崎カステラは意外にも明治以降だそうだ。

和菓子の<はじめて>物語(1)

2024-01-21 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
昨年暮れに、和菓子で有名な虎屋の赤坂本店で『和菓子の<はじめて>物語展』が開かれていて、資料を頂いてきた。改装前の虎屋文庫でも同種の展示を観たことがあったが、さらに研究が進んでいるようだ。



今回は、いくつかの和菓子の「初めて物語」について紹介。もちろん詳しい方もいるでしょう。

1. 羊羹
羊はヒツジのこと。中国では羊頭狗肉(羊の頭を展示して、実際は犬の肉を売る精肉店)という言葉もある通り、高級な肉。日本でも新宿に羊肉の水餃子が売りの店があったがどうなっただろう。ともかく羊肉のスープを羊羹と言っていた。日本に入ってきたのは禅宗の渡来僧によるのだが、最初から羊ではなく小豆などだったが菓子ではなく、ちょっとつまむ点心だった(注:そもそも日本は1日二食制だったので、お昼になるとつまみたくなる。点心とおやつは一体化していた)

本格的な菓子になったのは茶会の茶菓子ということ(これは多くの和菓子に共通だが)。当初は蒸し羊羹だったそうだ。18世紀の末(1790年頃)練羊羹が完成したそうだ。

2. 饅頭
まず中国の現実だが、よく知られているようなのが中国では中に餡が入っていないのが饅頭(まんとう)で、餡が入っているものを包子と呼ぶとされるが、ことはそう簡単ではないようだ。台湾や香港では中に餡が入っていても饅頭と言われることが多いそうだ。包子というのは1920年頃からだそうで、もしかしたら共産党とか日中戦争とか関係しているのかもしれないが、あえて調べる人はいないだろう。

饅頭の発祥は、生贄の人間の代わりというのだから恐ろしい。諸葛孔明が暴れる大河を目の前にし、占い師から49人の人間の生贄が必要と言われ、人間の頭をかたどった饅頭に肉を詰めて代用したことから始まる。ということで、最初から肉まんだった。

日本に渡来したのは羊羹と同様に禅宗の僧による。当初は餡のない饅頭で、その後は餡(おそらく小豆)が入り、さらに砂糖が加えられた。江戸時代は広く茶店で供されていた。

その他、最中、大福、金鍔(京都では銀鍔)、どら焼、水無月、上生菓子など、それぞれにヒストリーがあり、丹念にそれぞれの諸説が紹介されている。残念ながら、生八橋の発祥秘話は書かれていない。

和菓子のルーツ調べで難解なのは、文字情報で製法が古文書で発見されても、完成の写真があるわけではなく今一つ菓子の実態が掴みにくいことのようだ。