竹久夢二生家へ

2015-05-04 00:00:08 | 美術館・博物館・工芸品
竹久夢二は岡山県の邑久(おく)という場所で生まれる。明治から大正にかけて大活躍した画家で、あまりに有名すぎて全国にいくつもの美術館がある。岡山にも後楽園の隣に立派な美術館があるのだが、その別館になっているのが、生まれた場所にある「夢二生家」。おそらくは屋根は大幅に直しているのだろうと思うが、全体のイメージは残されている。

かなり目立たない場所なので、その前を車で何度も往復。交通量がある細い道路から入るので、止めて確認するのが難しい。周辺を無駄走りしてしまううちに気付いたのだが、「竹久」という苗字と「武久」という苗字が混在している。

たんに想像だが、岡山のこのあたりは、新興仏教で弾圧された人たちや、戦国時代の各種戦闘で敗残兵となった人たちがとりあえず逃げ込んだ場所でもあり(私の親戚の一筋もそうらしい)、本当は武久でも、竹久に姓を変えた人たちが多いのかもしれない(銀行口座の名寄せ防止策みたいだが)。

yumrji


実家は造り酒屋。増築部分に彼の作品のいくつかが展示されていて、時間をかけて観ていくと、自作の俳句に絵を付けるという趣向にかなりこだわっていたようだ。いわば、与謝蕪村流。夢二の場合、絵の方の腕は間違いないのだから、問題は俳句の方だが、これも優れものというのだろうか。<黒牛のぬれた気もなし北しぐれ>とか。その他にも情感に長けた句が多いのだが、絵画の方が感情に抑えがあって、脳の奥に染み込む力が強いように感じた。(句集でも入手しようかとは思っているが。知人に句会に誘われる今日この頃なので)

彼の活躍していた時期は、街中を行き交う女性(男もだが)たちは、和服と洋服が入れ替わっていく時代で、そういう和洋混在時代の雰囲気を描いていたということなのだろうが、街に「和」が消えた今こそ、評価が高いのだろう。

彼の年譜などを調べてみると、色々ありすぎるのだが、二点だけ書いてみると、

藤島武二の弟子だったのだが、数多い弟子の中で、夢二と青児と嗣治の三人は、よくつるんでいたそうで、名前の最後に、師匠の武二の最後の「ジ」を三人ともつけていたため、「三ジ」と言われていたらしい。こういった仲になると、よく起るのが「妻略奪関係」で、青児が夢二の妻に手を出して、親密関係は一気に解消してしまったらしい。

夢二は晩年(といっても50前)に欧米に渡り、自作で世界に挑んだのだが、帰国後、結核により亡くなってしまう。現在、個人的にデータ収集中の日本女子最初の世界的アスリートである岡山県出身の人見絹枝も、ほぼ同じ時期に欧州から帰国後、20代で結核で亡くなっている。