銀座のサハリン

2015-05-01 00:00:34 | 市民A
この話、最初はカメラの修理のところから始まるので、書き終わる時にどこに行っているかよくわからない。

NIKONの一眼を使っていて(普段はキャノンのEOSだが)、主にズームを二種類使っている。最近、画像の右上の方にシミが残ることに気付き、レンズを変えても同じ場所にあるため、知人のカメラ青年(主に鉄道関係だが、それ以外の被写体は不明)に聞くと、内部にゴミが落ちているのだろう、と言われ、自分で吹き飛ばすか、メーカー修理という選択肢を与えられた。

調べると、自分で吹き飛ばすのには技術が必要で、カメラ数台壊してやっと覚えられるらしい(ちょっと大げさかな)。ということで、銀座7丁目のNIKONサロンにあるサービスセンターに持ち込むと、あっという間に「ローパスフィルター清掃」ということになり、所要時間1時間ということ。

saha


1時間の使い方。まず、1階のニコンサロンに行くと、新田樹写真展として「サハリン」が開催中(~5/5)。

サハリンの風景を写すのではなく、70年前にサハリンに残った日本人や韓国朝鮮人の人たちやその子孫を被写体にしている。

サハリンに残った人の多くは、韓国朝鮮人だったのは、終戦と同時に韓国が独立して日本人じゃなくなったことが直接理由なのだが、その韓国朝鮮人と結婚していた妻たちの多くが、祖国よりも家族を選んだため帰国しなかった日本人が、百数十人、今のサハリンに残っているそうだ。

しかし、日本人にしても、韓国朝鮮人にしても、なぜ終戦の時にサハリンにいたかといえば、仕事を求めて日本から流れついたというようなことが多かったようだ。しかも戦後の日本は苦しかったし、朝鮮半島は次の戦争に巻き込まれていった。

帰ろうにも帰れないし、帰ってもあてがないし、そのうちにサハリンでもいいや、ということになり本格的にそこに住んでしまった。そこには、日本や韓国朝鮮やロシアからの人も色々いるわけだ。袋小路というべきか。


実は、新橋駅の近くに「えのき亭」という軟骨入りつくねのおいしい焼鳥屋があるのだが、そこの社長が子供の頃、サハリンにいて、引揚ではなく、終戦直前に北海道に逃げたそうだ。家族を二つに分け、残る者と逃げる者。多くの家族がそうして一時、バラバラになり、北海道に向かった客船の多くは、空襲を受け沈没。サハリンに残った父親は、後に社長になった子供が亡くなったと思っていたそうだ。一度は、サハリン会で現地に行ったそうだが、「もう行かない」とのこと。

思えば、第二次大戦の最大の犠牲者は、ソ連(ロシア)なのだが、戦後の悪役ぶりで、すっかり損をしてしまったわけだ。

そして、時間をもてあまし、銀座通りを歩くと、観光バスが7台もとまっている場所があった。ラオックスだ。C国人の人たちが、店内にあふれていて、グループ毎に入店時間を決めているようだ。J国に来ればルールを守るとは、素行改善の見込みがあるのだろう。

その他、イスラム系の人たちや、中欧系の人や、聞き慣れない言語が飛び交っていた。NIKONの修理センターでも外国人がたくさんきていて、「バッテリパワー・ロー」なんて声が聞こえていたが、対応も大変だろうね。

そして、NIKONに戻って話を聞くと、ズームレンズが動く時にエアポンプのようになって外のゴミやホコリを吸い込んで、ローパスフィルターが汚れるそうだ。

ローパスフィルターとは、レンズを通って入ってくる光の中で異常なものを取り除く効果があるのだが、最近はレンズ性能が向上したので、ローパスレスカメラがあるそうだ。しかし、それではゴミはもっと奥まで入ってしまうような気がする。