言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

文学と論理は分けられない

2022年01月10日 21時27分50秒 | 評論・評伝

読売新聞の今日の社説は、正鵠を得てゐた。

 

(引用はじめ)

 感受性の豊かな高校時代に優れた文学に触れることは、後の人生にも大きな影響を及ぼす。文学と実用的な文章を切り離す高校の国語改革には無理があると言わざるを得ない。

 高校は4月から、学習指導要領が新しくなる。現代文や古文、漢文を幅広く学ぶ必修の「国語総合」は、実用的な文章を扱う「現代の国語」と、文学や古典に特化した「言語文化」に再編される。

 文部科学省は、社会で役立つ国語力の育成を掲げ、「現代の国語」では原則、文学作品を扱わない方針を示していた。

(引用終はり)

 この浅薄な国語観を糺す必要がある。現代の国語を、評論や実用的な文章に限定するとはどういふ了見か。

 ただ現実的には「文科省側は当初、教科書会社側には「『現代の国語』で文学を扱う余地はない」と説明していたとされる。しかし、検定を行う審議会は「文学の掲載が一切禁じられているわけではなく、直ちに欠陥とは言えない」と判断した。」といふことらしい。

 審議会の見識に救はれ、それに対応するやうに全国の高校では、小説を入れた第一学習社の教科書が最大のシェアを占めたといふ。

 

読売新聞は、社説をかう締め括る。

「批判の多い改革を強引に推し進めるべきではない。文学と論理にあえて線を引かず、一体的に学べるように改めることが必要だ。」

 

 この社説の見識を多としたい。

 

 

 

 

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当面の課題を解決すれば問題が無くなるのか。

2022年01月05日 11時25分57秒 | 評論・評伝

 物事には表層と深層とがある。

 現実に起きてゐることにもこの2つの側面がある。例えば、植木が枯れてしまつたとする。

 表層にある原因は、水をやらなかつたからである。だから、水をやればよい。これで問題の解決である。

 しかし、新しく買つて来た植木もしばらくして枯れてしまつた。今度は水をやつてゐたのにである。となると、今度の原因は何か。調べてみると今回は根腐れが原因だつた。つまりは水をやりすぎたのだ。

 ここに来てやうやく深層にある課題が明らかになる。即ち、水のやり方について分からないことが原因だつたのだ。

 これで解決をした……はずであつた。が、三度新しい植木を買つて来るとしばらくして枯れてしまつたのである。

 いつたい何が原因だつたのだらうか。

 

 世の中に起きる出来事とはかういふものであらう。いつまでいつても課題は解決せず、解決したと思つたら新たな課題が見つかつてしまふ。しかし、とかく私たちは表層の解決を問題の根本解決と見がちだ。だから、何かが起きると急に慌て出してしまふ。

 今日の状況はまさにそのものだ。またぞろコロナ禍で世間が動き出さうとしてゐる。更に今日は、北朝鮮が飛翔体を日本に向けて発射した。そして近づく北京オリムピツクの開催はどうなるか。

 昨日、アメリカの政治学者イアン・ブレマーが率いる調査会社「ユーラシア・グループ」が今年の十大リスクを発表した。一位には中国のゼロコロナ政策の失敗を挙げてゐる。三位にはアメリカの中間選挙が入つてゐる。「今年の」と付いてゐるやうに「昨年の」「十年前の」十大リスクはあつたのだし、「五年後の」「二十年後の」も十大リスクはあるのだし、何なら「二千年後の」十大リスクもあるに決まつてゐる。仮に地球に住む人類の方が地球外に住む人類より少なくなつてゐたとしても、リスクはあるに決まつてゐる。イアン・ブレマーはそれを百も承知で「今年の」を考へてゐる。彼らにはそれぐらゐ常識であるのだが、案外私たちはそれに気付いてゐない。だから、下手なサッカーチームの選手のやうにボール(喫緊の課題)のところに意識も時間も必要以上にかけてしまふのだ。もつと本質的で深層にある課題を見据えない言論は、「横(平面)志向」の付け焼き刃に過ぎない。

 さういふ横志向を、松原正は「政治・好色・花鳥風月」と名付けたが、私たち日本人にとつてこれはどうにも度し難い問題である。物事を複眼的に見られないのである。

 年末に、NHKで香取慎吾が演じた山本五十六のドラマを見たが、ロンドン軍縮会議で英米の軍備を制約する軍縮条約に加盟した方が、経済力に劣る日本の生き残る道があると見る視点を当時の海軍上層部は持つてゐなかつたやうだ。もちろん、国民もである。だから、軍縮条約を破棄せざるを得ずに帰国した山本を国民は大歓迎したのである。それもまた横志向である。縦の志向も持つことで、横の志向が柔軟になる。さういふ立体的な思考を持つ子供を育てたい。

 

 

 

 

 

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引きこもりとシェアハウス

2022年01月04日 09時41分16秒 | 評論・評伝

 内閣府によると「平成30年度調査の結果により、全国の満40歳から満64歳までの人口の1.45%に当たる61.3万人がひきこもり状態にあると推計された」と言ふ。

 一方、シェアハウスの件数はどれぐらゐあるのかと言へば、「一般社団法人日本シェアハウス連盟が発表した『シェアハウス市場調査2020年度版』によると、シェアハウスは全国に5104棟」。2021年には若干減つたといふことだが、2013年には2744棟といふから、7年間で2倍といふことになる。一棟に10名住んでゐるとして約5万人。引きこもりの12分の1とは言へ、同じ時代に引きこもる人と家をシェアしようといふ人とがゐるといふことは考へたいことである。

 私は、大学時代10名ほどの友人たちと同居してゐた。彼らは学部も学年も違ふ先輩後輩たちで、誘はれて生活を始めたのである。田舎の大学でもあるし、そもそもシェアハウスといふ言葉のない時代であるが、食事も順番で作り雑魚寝状態で、共同生活をした。何もかも共同といふことであつたので安くは済んだが、個人の所有物といふのは衣類ぐらゐだつたやうに思ふ。大学を卒業したあと会社に勤めたが27歳のころほぼ引きこもりになつた。その期間は半年ほどあつた。単に退職して次の仕事をする気にならなかつたといふことなのだが、うつ状態であつたのも事実である。

 シェアと引きこもりといふことを両方経験したが、それによつて今日の私はある。我慢することと精神を守るといふこと、それを体験できた。

 昨日、私たちの現在の「国体」は「自分のため」といふ世俗的人本主義だと述べた。せいぜい「他者のため」ぐらゐで大丈夫かといふ問ひかけもした。

 しかし、考へてみれば私たちの現在には「国体」といふ意識を育てる契機自体がないのかもしれない。しかし、自分と他者とでしか生きる意味を探る術がないのはやはり貧しいことである。

 「国」を意識するには、教育が必要となる。例へば国防である。公共財である国防サービスにたいして私たちはあまりにも無頓着である。それについて学ぶ機会はあるべきだ。ちなみに私の住んでゐた「シェアハウス」では大学の先生をお呼びしたり、勉強会を開いたりしてゐた。大学には左翼学生がゐた時代で、キャンパスにはタテカンも健在だつたし、ヘルメットをかぶつた人もたまに見かけることがあつた。さういふ状況への危機感を私たちの仲間は共有してゐた。そこで学んだ知識や議論が私の底辺にはある。

 そして私が卒論に選んだのが、内村鑑三であつた。私の貴重な一冊は『後世への最大遺物』である。

 

 

 

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現代の国体は、世俗的人本主義

2022年01月03日 09時53分26秒 | 評論・評伝

 年は明けたが、時代は継続してゐる。「時代」などといふと曖昧であるが、「人々の作り出す空気」と言へば少しは具体的だらうか。

 自分は何のために働くか、何のために学ぶか。さう自問した時に、「自分のため」あるいはせいぜい「他者のため」としか答へられないのが「現代の私たちの作り出す空気」であらう。

 しかし、これが違ふ時代の人々は「国のため」と明言できた。そのことの時代錯誤をたぶん「現代の私たち」は冷笑するだらうが、果たしてさうか。少子化ひとつ取つて見ても、何らの解決策を見出すことなく、私たちの国は衰退をしていくであらう。人口減が人口ピラミッドの構造の縮小ではなく、いびつな形の造型を意味するのは、「自分のため」「他者のため」の帰結である。そこに外国人労働者を受け入れるといふ施策を打つたところで、日本人が日本国をどうするかを考へずに「自分のため」にといふ目的であれば、日本が日本でなくなるだけである。

 私たちの戦後民主主義が大事に大事に守つてきたこの「自分のため」といふ空気の造型がまさに現代の国体である。国体などといふと分かりにくいだらうが、「国のかたち」(司馬遼太郎)、国民が最も大事にしてゐる価値観(考へ方)のことである。戦前の反省の上に立つて作り上げてきたこの国体がいよいよ限界に来た。さういふ意識で日々生活することは難しいだらうが、そのことを意識の底に置いておかない日々の生活といふのも欺瞞である。空虚感が表面に出てきたとき、果たして私たちはどうなつてしまふか。年頭に当たり、そのことを記しておかうと思ふ。

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Th!nk 令和壬寅(四年)2022年が明けました。

2022年01月01日 10時48分37秒 | 日記

Th!nk  本年も宜しくお願ひします。

 ブログの更新や『時事評論石川』『正論』の執筆も継続して行かうと思ふ。本業の教育も今年は学会に2つ入る予定で、評価(アセスメント)や見直し(リフレクション)について少し勉強してみるつもり。

 出来ることは多くはないと思ふけれども、やるべきこともあるやうに感じる。その期待の声と対話が出来る限り、黙々と、でも楽しみながら、やり続けたい。

 

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