言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「朝の読書」への言ひがかり 工藤勇一氏の発言

2022年01月16日 16時13分00秒 | 評論・評伝

 横浜の私立学校の校長をしてゐる工藤勇一氏がツィッターで、次のやうに書いてゐた。

「読解力を伸ばすためには本を読めと言う。じゃあ、そもそも本を読むことが困難なディスレクシアの人たちは読解力が伸ばせないのか?そんなことはない!スピルバーグだってトムクルーズだって人並み外れた読解力をもっている。 学校は朝読書で苦しめられている子どもたちがいることを忘れちゃいけない。」

「読解力を伸ばす」ことと「ディスレクシア」への配慮を同じ土壌で論じてゐる。いちいち目くじらを立てる必要はないのかもしれないが、かういふ混同は教育論ではまま起きることがあるので、少し論じておかうと思ふ。

「読解力を伸ばす」のは、学校教育としての全体目標である。その方法に朝の読書が適切かどうかを論じることは可能であるし、当然すべき事柄である。しかし、その議論のなかで朝読書を批判する理由に「ディスレクシア(知的能力および一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに著しい困難を抱える障害であり、学習障害の要因となることがある)」の話題を出すのは不適切である。こちらは個別の問題である。もしさういふ生徒がゐるのであれば、オーディオブックを配置すればよいだけの話である。

 しかし、世の中にはかういふ混同を喜んで受け入れる人々が多い。そして、その混同を主張してゐる方の信者さんたちが進んで受け入れる。それがたいさう気持ちが悪い。件の件で言へば、工藤氏の発言に対して「工藤先生の仰ることに全面的に賛成です」との言が多数寄せられるから、もう見てゐられない。学校教育を担ふ教員といふ種族のあまりの無知にほとほと嫌になつてしまふ。

 これぐらゐの理屈がどうして分からないのだらうか。教師の質は相当に悪いのだらう。文科省もダメなら現場もダメ。あとは、両者が世上のマイノリティであることを祈る。常識的に、読書の価値を信じ、読書の勧めを行ふ人が、メジャーであることを信じる。

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