言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『乱談のセレンディピティ』を読む。

2017年01月27日 10時44分03秒 | 日記

 外山滋比古先生の前作に続く「セレンディピティ」ものである。

 セレンディピティとは、「思はぬ発見」といふことで、前作は「乱読」による新しい発見を取り上げてゐたが、今作は「乱談」といふことを契機に起きる新発見を取り上げてゐる。「乱談」といふのは造語であるが、専門家同士の話や、しやちほこばつたシンポジウムといふのとも違つて、気の置けない、多種多様な人との雑談といふことである。

 専門家同士だと揚げ足取りだつたり、知識の競ひあひだつたりして批判会になつてしまふ。それに対して乱談だと言ひたいことをそれぞれが言ひ合ふから新しい知見が生まれる可能性が高い。

 日本人は概してさういふ「サロン」を作るのが下手であるが、さういふことを作る人が上手い人がゐれば身近で作るべきだと言ふ。へえ、さういふものかなと思ふ。

 英語には、次のやうな言葉があると言ふ。

「All work and no play makes Jack a dull boy.」

 勉強ばかりしてゐると馬鹿になる、といふ意味らしいが、遊びの必要性を強調してゐるとのこと。学ぶことが本を読むことばかりになりがちな私たちには大事な教訓だらう。

 しかし、何度も言ふが、かういふ教訓を上手く引き出せたイギリス人や外山先生が、十分本を読んだからである。そのことを知らないでおしゃべりばかりしてゐては、本当に「愚かなジャック」になつてしまふだらう。

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