言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

早稲田大学の国語が横書きだつた!

2017年01月28日 09時59分03秒 | 日記

 昨日ご紹介した外山先生の『乱談のセレンディピティ』のなかに驚くべきことが書かれてゐた。

 今から五十年ほど前に早稲田大学で国語の入試問題を横組みで出したことがあると言ふのだ。さすがにその非をマスコミも感じたらしく、一斉に批難して一年で取りやめになり、元の通り縦組みになつた。

 公文書は横組みになり、世の中全体に横組みになるだらうと「進取の気性」に溢れる早稲田大学当局は思つたのであらう。なんといふ不見識であるか。文科省の役人の天下り先として教授職を準備する気質は、かういふところにも見え隠れする。早稲田の在野の精神とは聞いてあきれる。

 新聞は今のところ縦組みである。これは不思議である。横へ横へと意識が広がり、精神が平板化することを標榜する大マスコミも縦組みを捨てない。小説も横組みにするのは異例である。

 それに引き替へ漢字を失つた隣の国韓国の新聞はすべて横書きになつた。本も横組みである。儒教の精神が縦書きによつて保持されるといふことは文明史的問題である。書家の石川九楊氏がつとに言ふところであるが、ますます能率主義化する韓国の国民性はかういふことに現象化してゐると感じる。憂うべき問題である。

 国語は縦書きである。本は縦組みにすべきである。

 

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