言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

自分の文章を読み直す

2017年01月20日 13時06分39秒 | 日記

 先日、二十代の頃に仕事をご一緒にした方と久しぶりに話をする機会があつた。懐かしさと共に、その後の25年間のお互ひの思考遍歴を確認するやうな言葉のやりとりをしてゐるうちに次のやうなことを言はれた。

「俺の文章も下手だからな。」

 何気ない一言であるが、結構きつい一言である。つまりは「お前の文章も下手だけど」といふ意味だからである。さらりと聞き流したが、率直なご意見である。そして正当な評価でもある。

 文章の上手下手は他人が評価するもので、それを訂正する必要を感じない。事実、読み直すたびに修正を加へる。管理者であるワタシには、このブログで最も閲覧数が多かつたページを毎日知ることができる。それを見ると、ずゐぶん昔のページを見てゐる方がゐる。私もどんなことが書いてあるかが気になつて読み返してみると、修正の必要を感じることが多い。そこで修正することになる。

 自分の過去や声や活字を修正することはできないが、ブログの文章は修正することができる。こんな都合のよい媒体はない。それは逆に言へばいつでも未完成の文章といふことになる。だから、文章が上手くならないのかも知れないが、ここはメモでしかないのだからお許しを願ふことにしてゐる。このことはこれまでに何回も書いてゐる。

 考への種を残していくこと。これが私の、ブログの目的である。

「君の文章は上手いね」とそのうち言つてくれる人が現れれば幸ひだが、それを期待してヤキモキするよりは、そんなことを期待することは諦めて、考への種を残していくことに専念したいと思つてゐる。

 

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