言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

インコメンシュラビリティについて

2017年01月02日 13時58分24秒 | 日記

 インコメンシュラビリティ(incommensurability)とは、辞書的には「非整合性」といふ意味である。通訳不可能性なども訳され、異なるパラダイム間で、言葉と言葉の対応関係がうまくできない状態のことを言ふ。

 そこから、文化の相対主義といふことも引き起こされるわけだが、やはりさうした差異に焦点を当てて世界を観察するのではなく、共通する部分に焦点を当てて物事は観なければならない。

 私たちの日常の議論においても同じである。

 それができない理由。それでは対処できない場合の列挙。さうしたインコメンシュラビリティばかりを取り上げることを知性の役割と考へる、似非知性主義者が私の周りには多い。

 今日知識人と呼ばれる人にもさういふ人が多いやうに感じられる。さういふ知識人の性質を一言で言ふと、「インコメンシュラビリティの重視」といふことにならう。それが学問的誠実といふことと勘違ひしてゐるやうだ。だから始末が悪い。相対主義で防御すれば、自分の主張は変へずに済む。そして、そもそも議論を避ける。さういふ人たちは厄介である。

 今年もまたさういふ人たちとの闘ひがあるやうに感じる。

 

 

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