言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『日本教の社会学』を読む。

2017年01月16日 09時50分55秒 | 本と雑誌

 小室直樹と山本七平とは知の巨人であらう。今なら「知の巨人」と言へば立花隆を思ひ浮かべるだらうが、比較にならないほどの知識の豊富さである。

 私は、彼らの本のタイトルがどうにも趣味に合はないので在庫は確保しつつ書棚に並べてあるだけ(二人で30冊ぐらゐはあると思ふが)で、あまり読んでゐない。歴史の裏を明らかにするといふ視線も、表の理解が不十分な私にはあまり読んでもピンとこないといふのも理由のひとつである。といふことはつまり、両者を読みこなせるだけの知識と理解力とが私には欠けてゐるといふことなのである。

 ところで、小室直樹の門下生に橋爪大三郎といふ東京工業大学名誉教授がゐる。この先生の本はとてもいいと思つて読んでゐる。日本語で、きちんと論理的に記述する社会学が信条のやうである。だから、私にも分かる。

 この橋爪先生は、小室直樹を大絶賛。師匠だからといふよりは、素晴らしいから師匠として選んだといふのが正確であらう。橋爪先生も相当な知の宝庫であるが、その人をして「知の巨人」といふのだから相当であらう。

 小室氏は、専門主義ではない。知の巨人はあらゆる学問を縦横無尽に駆使して問題点を整理し、解決策を明言する。複雑な問題をぶつけられればぶつけられるほどいきいきとしてきたと橋爪氏は語つてゐる。

 山本氏は、『日本教』といふ言葉の創造者である。キリスト教も仏教も、儒教もマルクス主義も、すべての外来思想は日本に定着するときに必ず日本化してしまふ。言はば日本教キリスト派であり、日本教仏派であり、日本教儒派、日本教マルクス派である。それほどに強靭な日本教が存在するといふのである。それは空気となつて漂ひ、私たちの精神世界を支配してゐる。それに一瞬だけ穴を開けることができるが(それを「水を挿す」といふやうであるが)、それはまさに一瞬の出来事であつて、水を挿した人は排除され、また元の空気が支配する。

 考へてみれば恐ろしい社会である。福田恆存は「言論は空しい」と書いたが、その感慨はこの感覚から出てきたものであらう。

 本書は、日本とはどういふ社会かといふことを分析したものである。今後どうすべきかといふことについては書かれてゐるかどうか私には分からなかつた。ただ再読、三読は必要であると思はれた。それほど濃密なのである。

 古書では数万円の値段がついてゐたといふ。それをこの度版権をビジネス社が買ひ、復刊したやうである。もともとの版元である講談社はなぜ再版しなかつたのであらうか。それも謎である。

 

 

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