国際情勢についての日本の新聞やテレビはもう信じるに値しないと思つてゐる(もしかしたら国内情報も)。極めて偏つた見方で、しかもさうであることを示さず、いかにも真実ですといふスタイルで報道する。イギリスのEU離脱、トランプ氏の当選を見事に外し、それでゐて自らの報道能力の回復を示さないまま、またぞろトランプ攻撃を始めた。反対派の集会を大きく取り上げて、就任演説の聴衆の少なさを大げさに言ふ。それを伝へるのは、つい最近アメリカに渡つた駐在員であつてみれば、彼らも歴史のなかで、「今」を語ることができないから、勢ひ「雰囲気」だけで語ることになる。少なくともカーター氏以降の就任時の様子と比較して報道し、それと何が違ふのかを示してほしい。私たちが知りたいのは、今アメリカで起きてゐることがこの30年間においてどうなのかといふことであつて、「瞬間風速」ではない。
それで、私はオバマ前大統領の2009年の就任演説(以下①とする)と今回のトランプ新大統領の就任演説(以下②とする)とを読んでみた。正直、これまで就任演説など読んだこともなく、これはこれでトランプ効果といふこともできよう。アメリカ人がどう考へ、アメリカがどう進んで行かうとしてゐるのを知るのは、結構大事なことである。
一読、いづれも「神」を意識した言葉であることが印象的であつた。今さらながらアメリカはキリスト教の国である。独立戦争を勝ち、神の祝福を得て建国されたといふ自己認識は、両者とも変はらない。それはそれで私たちの国柄とは違ふものであり、アメリカ人を鼓舞するキーワードなのであらう。さういふものが私たちにあるかどうか、それも考へさせられた。
読んで見て、最も大きな違ひを感じたのは、主語である「we」の意味するところである。
①はアメリカ人一般を指してゐる。つまりそれは、すべてのアメリカ人はすべての問題の当事者であり、全体として事にあたるべきだといふことである。多様性を認め、それぞれの差異を失くすことによつて幸福な社会は実現するといふものである。
②は、アメリカ人一般といふものが果たして存在するのかといふことを前提としてゐる。つまりは、貧富の差、宗教の差別を無くさうとした結果、弱者の横暴、少数者の優先が度を越してゐるといふ認識である。それによつて社会がいびつになり、それを糊塗するきれいごとの政策がアメリカの力を削いでゐるといふのである。
①の文章は、美しい。建国の父の「未来の世界でかう語られよう-酷寒の中、希望と美徳しか生き残ることのできない時、共通する危険に気づいた街と田舎は、前に出てそれに立ち向かつた」といふ言葉を引用して閉じる構成もまた見事である。日本語でしか読めない私には、その味はひは分からないが、かういふ演説を日本の政治家が語ると白々しくなるが、英語では十二分に説得的なのであらう。
②の文章の格調も批評できるほどの力を私はもつてゐない。ただ、とても簡単な言葉で書かれてゐるのは分かる。一部報道ではcarnage(殺戮・大虐殺)といふ言葉でアメリカの状況を表現するのは現実を見てゐないと言はれてゐたが、その感触も私には分からない。しかし、さういふ言葉でしか表現できない現実を生きてゐる人が全くゐないといふのもウソであらう。
アメリカは、トランプ氏によつて分断されたといふのは、間違ひである。それは話が逆で、分断されてしまつたからトランプ氏が荒療治を始めることになつたといふことである。眼高手低の口だけ番長で終はるのか、有限実行の名大統領になるかは、これからの課題である。
いづれにせよ、演説だけで何もかも結論付けるのは愚かしいこと。①をそれが語られてから八年後の今読めば、出来てゐないことがたくさんあることが明らかになつてゐる。しかし、そのことを取り上げたマスコミは私が見聞きした中では1つもなかつた。ひたすらその理想主義に酔ひしれてゐる。この二三日の報道は、さういふレッテル貼りばかりであつた。アメリカ人でもない私たちが、どうしてこんなに「熱く」なるのであらう。不思議だ。
これで分かつたのは、マスコミの偏見振りである。だまされてはならない。