東京大学の2024年度入試の第四問(文科のみ出題)の設問(一)は「『ガラスは薄くなっていくが、障壁がなくなる日は決して来ない』とはどういうことか、説明せよ」となつてゐる。
そして、京都大学の2024年度入試の大問1(文理共通問題)の問5は「『核心は近づいたかと思えはまた遠ざかる』のように筆者が言うのはなぜか、『祈り』の歌詞に触れつつ説明せよ」となつてゐる。
「祈り」とは吟遊詩人ブラート・オクジャワの詩(沼野充義訳)で、第一段落に記されてゐるもの。
神よ 人々に 持たざるものを 与えたまえ
賢い者には 頭を 臆病者には 馬を
幸せな者には お金を そして私のことも お忘れなく……
東大京大とも、翻訳にまつはる話題である。異文化理解だとか他者理解だとか、あるいは多様性の尊重だとかいふことがいかに難しいかといふことを、それとは明示してゐないけれども、そのことを言つてゐるやうに思ふ。さうした確かな批評的センスで文章を選び、提示したといふことであらう。ただし、東大は文系の生徒に、京大はそんな区別はお構ひなしに全員に。
ちなみに、上の「祈り」の解釈を巡つて、京都大学は文系の生徒だけに出す問4で「この歌の解釈は多様で」に線を引き、「筆者はこの歌をどのように考えているのか、本文全体を踏まえて説明せよ」と問うてゐる。
賢い者には頭が必要か、臆病者に馬があつても使ひこなせるか、幸せな者にお金なんて必要なのか、そんな皮肉な歌を「多様」に絡めて説明せよといふのである。私たちが自明視してゐる「賢さ」「臆病」「幸福」の意味を、「それは本当ですか」と問ふのが詩人の役割である。さう思つてゐる確信をぐらつかせ、まづその人に、その存在に、その状態に目を向け、言葉にしてゐるかどうかを問うてゐるのである。解釈の多様性とはさういふことであり、単純に「さういふ人もゐるよね、はい私とは関係ない、次の人!」と他者をあしらつてゐる行為や姿勢を「多様性の尊重」と美化してゐる風潮への皮肉であるとも思へる。かういふところに線を引き、その意味を考へさせる京都大学の出題性を私はたいへん素晴らしいと思つてゐる。
さて、次回は京都大学の文系大問2と理系大問2についてである。これがまた面白いことになつてゐた。
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