2024年度京都大学入試現代国語に出題された文章は、次の通り。
大問1(文理共通) 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』
大問2(文系) 高村光太郎「永遠の感覚」
(理系) 石原純『永遠への理想』
大問1と今年度の東京大学の文科類に出題された文章との共通点については前回述べた。それは偶然の一致であるので、「奇跡」と評したが、京都大学大問2の共通性については意図したものであるので、「奇跡」ではない。もちろん、同じ主題で全く異なる筆者の文章を探し当てるといふのは、たいへんな労苦であるし、素晴らしいと思ふ。しかも、その主題が「造形芸術における永遠性」といふものであつてみれば、それは見事といふほかはない。18歳(あるいはそれ以上)の青年に、このやうな主題をぶつけるといふことは、さすが京都大学と思はせた。やはり、一味違ふ。
日常において見たり聞いたりしてゐるものにたいして、その自明性を疑はせるといふことは、学問の、あるいは教養のたいへん大切な行為である。
出だしの一文を引く。
文系 芸術上でわれわれが常に思考する永遠といふ観念は何であらう。
理系 成形美術においてはこれを表現するに当たりて種々の実在の自然物を用います。
つまり、かういふことだ。実在の自然物を使つて表現される成形藝術(いはゆる造形藝術のこと。彫刻や絵画や塑像・陶藝など)は、時間と共に朽ちたり壊れたりしてしまふ。その点、音楽や文学は、逆に楽譜や手書きの文字に意味があるといふより、その再現性にこそ価値がある。では、成形藝術には永遠性がないのか、といふ疑問である。
高村光太郎は、詩人であり彫刻家である。石原純は、物理学者であり歌人でもある。
高村は、その永遠性を「不滅を感じせしめる力」と断じ、「無の時間に於ける無限持続の感覚」と定義する。「明日焼き棄てられる事の決定してゐる作品にもわれわれは永遠を感じることが出来る」。「美は常に或る原型へと人を誘導する性質を持つてゐる」。
石原は、「藝術がその本質的価値を永遠に保存するためには、科学の共助を待つことを必要とする」とし、科学を疎んずることがないやうにと述べてゐる。「科学が十分に発達したとするならば」といふ条件をつけつつ、「藝術は永遠のものでなければならない」との思ひと、そのれを実現するのは科学であるとの科学者としての自負が記されてゐる。
二つの文章を是非今後京都大学を受ける人には薦めたい。今後京都大学の標準問題として残つていくものだと思つてゐる。
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