言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『火花』を讀む

2015年08月15日 12時46分51秒 | 日記
 話題の『火花』を讀んだ。このところ芥川賞作品も讀んだり讀まなかつたりといふことが續いてゐたが、今回は讀んでみたいと思ひ、文藝春秋を買つた。

 とても讀みやすかつた。芸人といふ職業に就いてゐなかつたらきつとここまで書けなかつただらうといふことが多かつた。それはとても現実的で、主人公は作者そのものであつても体験記としても面白い。

 もちろん、作者の生活を写実的に書くといふことは、小説の幅を狭めてしまふ危険をこの種の私小説は秘めてゐるが、この作品はその欠点を免れてゐる。私が、この作者が漫才をするところを見たこともないから、この小説がこの作者の漫才より面白いか否かは分からない。しかし、とても誠実な印象を受ける主人公はテレビを通じて受ける印象と同じである。世間に対して「いないいないばあ」を全力でやるしかないと闘ふ主人公は、果たして何を理想としてゐるのかは分からないが、ドンキホーテのやうに見えない敵と一所懸命闘つてゐるやうにも見えた。

 弟子である主人公と、師匠である神谷とが交はすメールには、必ずあだ名をつけられた互ひの名が記される。「エジソンが発明したのは闇」(神谷)、「エジソンを発明したのは暗い地下室」(僕)などなど。売れない芸人の孤独感は、とても控へ目だが明確に記されてゐる。この辺りの切実感は私小説の良さであらう。

 ちりばめられた、二人の理屈つぽい会話や説明は、私には面白かつた。小説の流れを中断しかねない危険な場面ではあるが、それがこの作家の物の見方であり、書きたいことなのだらうから、流れから浮いてゐないかぎり歓迎である。

 しかし、最後の場面は私には不快であつた。台無しにしてしまつた。もし売れてゐる芸人の小説でなかつたら、この作品は受賞しなかつただらう、さう思ふ。主催団体の商売つ気を感じさへした。

 次は、芸人でない人を主人公に書くと言ふ。ぜひ書き続けてもらひたい。その期待だけは讀後も変はらなかつた。
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