言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

再びのではなく実は三度の大阪万博、いいぢやないか。

2016年11月03日 14時52分54秒 | 日記

 2020年に東京オリンピックが開催された後、2025年に大阪で万博を開催しようといふことを大阪府が提案してゐる。テーマが「健康・長寿」といふことで少し意外な感じがあるものの、まあいいんぢやないかといふ気がしてゐる。

 経済的な効果についてといふのではなく、東京以外での国際イベントはもつと頻繁にやるべきだといふ思ひがある。これからは国家の壁はどんどん低くなるだらうから、代はつて役割を担つていくのは都市である。都市の魅力を高めていくことで人材と経済がまかなへると考へる(エビデンスはないので、あくまで素人の直観ですが)。

  ところで、大阪万博と言へば1970年のことを思ひ出されると思ふが、じつは「国際花と緑の博覧会 EXPO’90」といふものもあつた。EXPO’70は千里、EXPO’90は鶴見緑地である。そして、今度は夢洲である。今の大阪の湾岸地区は本当にすさんでゐる。USJはにぎはつてゐるが、南港辺りの周辺は悲惨と言つていい。建物のセンスがない。いかにも公共施設といふ感じで、冷たい感じがするのである。今回も行政主導でやればうまく行かない危険性は大きい。だから、パナソニックやシャープや日清製粉やダイハツや住友グループや京セラや日本電産やワコールなど、その他の在関西の企業に協力を仰ぎ、むしろ彼ら主導でやつていくのがいいのではないか。会場建設費と運営費を合はせて2000億円といふ。その三分の一づつを、国、大阪府大阪市、民間で分け合ふと言ふ。それにプラスして市民に寄付を願ふといふのはいかがだらうか。折りしも現在、EXPO’70の遺産「太陽の塔」の修復費用の募集を一般に求めてゐるところだ。この方式が大阪らしくていい。けちかも知れないが出すときは出す、さういふ心意気を示すのが万博成功の第一歩である。つまりは、目標金額に到達しなければやらないと言ふことにして、立候補すればいいだらう。制度がそれを許さないだらうが、出すものも出さないで開催地として立候補するといふのは、「都市の時代」を迎へた現代社会には相応しくない。さう思ふ。

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