言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

缺性といふこと

2024年08月15日 15時53分27秒 | 評論・評伝
 缺性(欠性)とは聞きなれない言葉だと思ふ。缺如と言へば分かりやすいが、哲学用語はわざわざ言ひ古されてゐない言葉を用ゐて、言葉の意味をくつきりとさせようといふ意図があるやうに思はれる。
 その意味は 「本来は持つてゐるべき性質を持つてゐない状態」といふ意味である。
 「中」とは上下左右前後などの「両端」の概念があるはずなのに、それを持たずに「中」だけがあるとすれば本来はをかしいはずだが、中しか存在しないと考へればそれは缺性的といふことになる。中の下に「華」をつけて、東西や南北に存在を認めないといふ政治姿勢の国があると言へば、その国は缺性的といふことになる。
 このことは、人に対しても同じである。自分の考へだけが正しいと考へ、他の人の考へは誤りであると断じる姿勢は、意見の対立は許されないといふことを示してをり、缺性的と言へる。
 私たちの社会や存在は、本来両義的な関係において成り立つてゐる。先に上げた上下左右前後もさうであり、正邪や善悪、あるいは老若男女でさへさうである。にもかかはらず「私」だけがあると考へるのは、相当深いところで缺如があるといふことを意味する。
 政治家に対する批判や、政治家同士の論争を見てゐてつくづく思ふのは、さういふ缺如感の自覚が無さすぎるといふことである。
 論破することを格好いいと思ふ人々が増えてゐるが、さういふ人に感じるのはこの缺性といふことである。
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