言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

大江健三郎氏は、筆を折れ

2007年11月11日 08時26分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

  先日11月9日、沖縄戦で住民に集團自決を命じたなどと著書に虚僞を記載されて名誉を傷つけられたとして、舊日本軍の元少佐・梅沢裕氏(90)ら2人が、作家の大江健三郎氏(72)と岩波書店(東京)に、氏の著書『沖縄ノート』などの出版差し止めや損害賠償を求めた訴訟の第11回口頭辯論が大阪地裁(深見敏正裁判長)で開かれ、原告、被告双方の本人尋問があつた。

  まづは、以下の記事を御讀みいただきたい(讀賣新聞)。

  大江さんは「自決命令はあったと考えているが、個人の資質、選択の結果ではなく、それよりずっと大きい、日本の軍隊が行ったものだ」と述べた。集団自決が行われた座間味島の守備隊長だった梅沢さんは「絶対命じていない」と否定した。

 大江さんは、この日の陳述や地裁に提出した陳述書で、自著で自決命令があったとした根拠について、〈1〉地元新聞社が刊行した書籍などを読んだ〈2〉書籍の執筆者らにも話を聞いた――などと説明。座間味島を訪れるなどして生存者らから話を聞かなかったのは「本土の若い小説家が悲劇について質問する資格を持つか自信が持てず、沖縄のジャーナリストらによる証言記録の集成に頼ることが妥当と考えた」とした。

  この最後のコメントなど、屁理窟にもなつてゐない。もしさういふ「資格」がないのなら、そもそもそんな著書を出す「資格」もないと考へるのが「妥當」である。自信作しか書かない作家なのならば、それが筋だらう。自信とは、極めて主觀的な表現である。それを小説ならともなく、事實確認の場で持出すとはどういふ了見だらうか。「質問する資格」がないのなら本を書く「資格」もあるまい。裁判でのこの證言は、大江氏にとつて致命的なミスである。そして、語るに落ちた瞬間として、後世に記録さるるべき一コマである。

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