言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語218

2007年11月12日 08時27分36秒 | 福田恆存

(承前)

  前囘引用した福田恆存の主張の背景にあるのは、國語改革といふものは、現實の切實な要請によつて始つたものなのではなく、ためにする、そして全く熱意のない、易きにつくものだといふことである。この知的行動的怠惰に對して、清潔な良心が反撥した。福田恆存の態度は、その發露であつた。「便宜主義」によつて、國語を改惡されてはたまらない。その叫びなのである。

  ところで、金田一京助は、福田が千年前のつづりを現在も常用してゐる國はたくさんあると言つたことにたいして、鬼の首でも取つたかのやうに、「この文化の競争の烈しい世界に堂々と、千年前の綴りでやっている文明国が、果たしてありますか。どうか、今からでもよいから探して下さい。あったら私が降参します。無かったらあなたが降参ですよ。」(『金田一京助全集』第四卷三六〇頁)などと言ふ。あたかもここにこの論爭の中心があるかのやうな言ひぶりである。金田一は、歴史的假名遣ひは、千年前のものであつて、そんなものを現在使ふことは「歴史的觀念」が缺如してゐるからと考へてゐるのである。

  このことの當否はすでに何度となく本稿でも書いてきたことなので、改めて書く必要もないだらう。假名遣ひとは語意識に基づくもので、その精神は國語の本質であるとだけ言つておかう。ただ福田恆存のこのことへの直接的反論を引いておくことにする。

「たしかに『千年前のつづりと、今に常用してゐる國は、たくさんある』はまちがひで、『六百年』か『三百年』と言つておけばよかつたのです。だが、この失言を私の論據にとつての致命傷と考へるのは御愛嬌です。そこが本質音癡の金田一さんの弱點です。要するに、私のいひたかつたことは、文字と發音との差の大きさについてであり、たとへば、だいたい中世の發音に依據してゐる綴りを大して變更せずそのままもちつづけてゐるイギリスなどにくらべれば、日本のばあひ、古今の差は全く微々たるもので、『歴史的かなづかひ』を知つてゐさへすれば、それだけで千年前の古典に道を通じることができるのです。」

(『全集』第三卷一五五頁)

  國語の連續性については、假名遣ひや發音に限らず、語彙の意味の變化の側面から言つても明らかで、國語の保守性は一目瞭然である。以下の表は、『語意の解釈がゆれる中古語と中世語の考察』の著書もある熊本女子大學元教授江口正弘氏のまとめたものである。

 

基礎語

現在使ふもの

殘存率

動詞

二八五語

二四七語

八六・七%

形容詞・形容動詞

七三語

五八語

七九・五%

名詞

三一五語

二四九語

七九・一%

副詞・その他

三九語

二二語

五六・三%

助詞

五三語

二八語

五三・〇%

助動詞

二八語

五語

一八・〇%

  この表を見てすぐに氣附くのは、この千年間に助動詞の意味は大きく變化してゐるが、動詞・形容詞・形容動詞(まとめて用言)や名詞(體言)は、ほとんど變化してゐないといふことである。「美し」は「美しい」に變つたが、「花」も「咲く」も同じである。「花が咲きけり」は「花が咲いた」となつた。「けり」が「た」になつたのである。したがつて、古文を讀むには、助動詞をしつかり學習すれば割合理解が早くなる(餘談であるが私自身もそのことを念頭において學生を指導してゐる)。

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