言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

少年院訪問

2007年11月19日 07時46分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 少し前になるが、11月9日大阪府内の少年院に行つてきた。日本一古い少年院であるといふ。研修の一環として訪問したものであるが、以前大学院で指導教官だつた方が、少年法の研究者で少年院にも指導員として何年か御勤務されてゐた方だつたこともあり、今回の研修を充実したものにしたいと思つてゐた。 

 詳しい内容について書いて良いものかどうか分からないが、入所者にはそれぞれの原因があり、それぞれの背景を今も背負つてゐるといふ事実を改めて知らされる機会になつた。退所するにあたつて身元引受人を探すと、親は刑務所、親戚の方には謝絶されるといふ少年をみると、どうしてよいか分からなくなるといふ説明には、絶句するしかなかつた。たぶんさういふ少年がゐるだらうことは想像できたが、目の前に確実にゐるといふことを知つたのは衝撃である。

 7時起床はともかく、訓練(そこは職業訓練学校も兼ねてゐた)、生活指導、食事の質と量の確保(ただし、オカワリはできないやうだ)、本やテレビの制限、21時30分就寝の生活は、少年の心の成長にはずゐぶんと効果を挙げるだらう。生活の乱れが心を乱すのは少年にとつては大人以上に顕著であるからである。だが、あまりにその外発的な「規律正しさ」がそこを出た時の世間のいい加減さにとつて逆効果を生み出さないかとも危惧を持つた。もちろん、これは杞憂なのだらう。多くの少年は「二度とあんなところに戻りたくない」といふ思ひを持つだらうからである。

 先に言つた、私の指導教官の教授は、少年には罪の重さに比例する罰を与へれば良いといふものではない。よく見て、よく話してくれるベテランの弁護士こそ、少年審判には必要だといふことを話されてゐたことを思ひだした。私の修論は田邊元の哲学を下敷きにした福祉哲学であつたが、それについてもその先生は、的確に批評してくださつた。「ドストエフスキーを読みなさない。」「愛が必要です。」修論審査の折、多くの先生はさすが福祉系の方々らしく、私にとつてはどうでもよい、実用的な視点での質問や意見を言われたが(中には「なぜパワーポイントを使はないのか」などといふ噴飯物の質問をされた)、それだけにその先生の言葉が、私にはほんたうにありがたかつた。

 少年院の教育の視点が、教育全体の視点に必要だとそのときから感じるやうになつた。

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