言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語219

2007年11月16日 13時18分16秒 | 福田恆存

(承前)

  それから、これは驚きであるが、金田一京助は動詞と助動詞の區別もできないのである。もちろんそんな馬鹿なことはないので、無頓着であるといつた方が正確ではあるが。

「福田恆存氏のかなづかい論を笑う」のなかで、金田一は、「ありつ」「ありぬ」「ありき」「ありけり」「ありたり」が現代語では「あった」になり、これが「古代英語の屈折が、今脱落しているのと、よく似ているではありませんか」(『金田一京助全集』第四卷三七〇頁)などと書いてゐる。

  しかし、これは「つ」「ぬ」「き」「けり」「たり」といふ時制を表す助動詞が「た」といふ助動詞になつたといふことだけであつて、英語の動詞の語尾の屈折とは全く質を異にしてゐる。それどころか、むしろ「あり」といふ動詞自體は(その活用語尾は、「ら・り・り・る・れ・れ」である)、終止形以外全くこの一千年變つてゐない。これは福田恆存は謙遜して否定したが「千年前のつづりを、今に常用してゐる」證據だと言つても「まちがひ」とは言へない。素人の讀者を馬鹿にして、「ありつ」「ありぬ」などは、動詞の屈折語のことであるといふミスリードをしようとする魂膽なのかどうか分からないが、どうにも不快な説明である。

  ところで、このことについて反論した福田は、かういふ英文を記してゐる。

  have been knoked down. I shall die soon.

 中學生で習ふ英文である。金田一京助のことを「老」と呼び、動詞と助動詞との區別ができないことを揶揄するためにかういふ英文を例に擧げるといふのも、かなり辛辣である。言葉を樂しんでゐるのであらうし、精神的な餘裕も感じられるが、論爭相手の心を頑なにするし、讀者の評價もどうであつたかは、定かではない。そして何より國語改革に對して良い影響があつたかどうかについても判斷を留保せざるをえない。私は、福田恆存の國語觀に全面的な贊意を寄せるが、この點については、冷靜に檢證すべきだと考へてゐる。

  さて、最後に「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」の最後の部分を引用して、金田一との論爭を終へる。

「以上で十分でせう。金田一さん、結論はかうです。表音式に徹するか、『歴史的かなづかひ』か、そのどちらかにしか道はありません。『現代語音にもとずく』は、どう考へてもごまかしとしか思はれないのです。それともう一つ、あなたから今さら音韻論の講義を聽きたくはありません。私が數囘にわたつて指摘した『現代かなづかい』の矛盾について、まづお答へいただきたい。また私に習つて、論敵から指摘された自分の誤りを訂正していただきたい。論爭はそれから先の話にしませう。」

(『全集』第三卷一五八頁)

  もちろん、このことについての返答は、金田一からはなかつた。しかし、これで金田一が納得するはずもなかつた。その思ひは想像するに難くないが、私信にその一端が示されてゐる。次囘にはそれをお示しする。

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