言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語216

2007年11月05日 23時30分40秒 | 福田恆存

(承前)

  確かに福田は、歴史的假名遣ひが合理的であるとは言つてゐない。ただ「より合理的」であると言つてゐるに過ぎない。しかし、といふことは「現代かなづかい」は「より非合理的」であるといふことであつて、そんなものを採用する必要がないことは明白であらう。

また、確かに福田は、歴史的假名遣ひを固守せよとも言つてゐない。かう記してゐるのみである。

「いづれにせよ、國語問題は、國語研究所のやうなところで、三十年五十年と資料にもとづいた地道な研究を積んだうへで、議會にはかり輿論にきいて決定すべきものと思ひます。」

『福田恆存全集』第三卷一五三頁

  歴史的傳統に則り、いやここまで來れば、國語の正統と言つてもよいだらう、その上に立つて、國語を築き上げよと言つてゐるのである。この福田の主張に何の疑念を差しはさむ必要はないだらう。歴史的假名遣ひを固守せよとは言つてはゐないが、その歴史性を無視せよなどとは斷じて言つてゐない。

  永野の主張は、まつたく自説に都合の良いやうに福田恆存の主張を解釋し、あたかも冷靜な審判のやうにこの論爭を記述するが、何のことはない。まつたくの詐術であつて、始めから結論ありきの魔女狩にも等しい愚論である。かういふ文章を今の目で見れば、何が正しかつたのか、そして何が誤りであつたのかが明確になる。歴史の審判を恐れぬ「專門家」の言ひがかりといふのが、眞實なのであつた。

 金田一自身が、歴史的假名遣ひを使ふことに困難を感じてゐたことなどないのに、まつたくおためごかしの「現代かなづかい」など、何の歴史的觀念などあるものではない。戰前には、歴史的假名遣ひを使つてゐながら、戰後に突然「現代かなづかい」を使ひ、自分自身の『全集』ではすべて「現代かなづかい」にするといふ姿勢にどんな歴史的觀念があるといふのだらうか。

  ちなみに、これはルール違反かもしれないが、氏自身の主張を裏切るやうなことをやつてゐる證據を擧げよう。私は、「現代假名遣論――小泉信三先生にたてまつる(全集では「現代仮名遣論――小泉信三博士へ」となつてゐる。このあたりの異同もこの全集は何も触れてゐない)といふ『中央公論』昭和二八年四月號の原稿のコピーを持つてゐる。あるところがこれを所有してゐたのを寫させてもらつたものである。したがつて、私も現物を見てゐる。そこに「世界じゅう」といふ言葉がある。活字では「世界じゅう」となつてゐる。ところが、原稿では「世界ぢゅう」となつてをり、それを後から訂「正」して「ぢ」を「じ」にしてゐるのである。氏が、どんなに「現代かなづかい」を主張しても、身體が歴史的假名遣ひを求めてゐるのである。漢字は、どれも正漢字であるのを、全集では新字に改めてゐる。こちらは假名遣ひの問題ではないが、身に附いたものを改めるのがどれほど難しいか、氏自身の筆が雄辯に語つてゐる。

それでも、もし歴史的假名遣ひに問題があるならば、少しづつ變えてゆけば良い。福田が書いた通りである。拙速と迅速とを混同してはなるまい。言葉は文化であり、歴史そのものである。

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