言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語217

2007年11月07日 23時23分15秒 | 福田恆存

(承前)

  歴史的假名遣ひの難しさは、教授法の不備と學習時間の減少(戰時體制による)と、國語や國文法への輕視が原因であるとするのが福田恆存の主張であるが、さらには西洋への劣等感が日本の傳統や古典への蔑視を招いたといふ點も附け加へることが出來よう。

「日本語は世界一むずかしい国語」などといふ駄文を書いた金田一は、その國語を專門とする大學者であるか。そんなことはない。だいたい言語學習のむづかしさを一律に論じることができるといふ感覺が、すでに「國語」といふ學問にはそぐはない。

  もし、その「世界一むずかしい」が明らかならば、世界一の言語を續けようと努力するはずだ。何も日本特殊論を國語を中心に展開しろといふのではなく、さういふ言語を何の問題もなく使ひ續けてきた日本人を誇りに思へば良いだけである。ところが、あらうことか「國語を易しく」などといふのだから、とんでもない。世界一などといふことを信じてゐないことがすぐに分かる。どうして言語を易しくしなければならないのか、そんなことをする力が、一國語學者にあると「信じている」、これが本當のところだらう。

  むづかしい國語を操れる國民の優秀性を言擧するのなら、まだ筋は通つてゐる。さうではなく、易しくするために、漢字漢語を滅ぼせなどといふのでは、これまたおためごかしである。國門の財産である文豪たちの文章を讀めるやうに、教育するのが筋であつて、「わかりやすく」カタカナ、ひらがなを多用することだけを薦めるのは、國語學者の傲慢である。

「古典からの距離は個人個人によつて無數のちがひがある。その無數の段階の差によつて」生じる「文化といふものの健全な階層性」を重視する福田恆存の方が、より國語といふものに通じてゐると言へよう(『全集』第三卷百十一頁)。

  更にさかのぼれば、福田は、昭和二十一年十一月八日~十日の「東京新聞」に「國語問題と國民の決意」と題して書かれた論文の中で、次のやうに記してゐる。

「かなづかひと漢字とに關する改革論者はつねにその修得の困難なことと、國民の知識層においても犯しかねぬ誤用の多きことを指摘します。が、それだけでは改革の理由にはなりません。あらゆる國語は習得に困難であり、誤用の氾濫をまぬかれないものです。私は元來、國民のほとんどすべてが誤りなく讀み書きできる國語といふ考へ方に疑問をもつてゐます。」(『全集』第三卷九十一頁)。

「なるほどひとびとは現在の國語の不完全と不合理とをたえず口にしてゐます。しかも、かなづかひにおいても漢字の使用においても、その實踐にはまことに怠惰であり無神經です。むづかしいといふのも、その規律を守りそれを知りきはめようとする實戰的な熱意から出てくる批判ではなく、はじめから易きにつかうとする怠惰と無責任とから生まれた愚癡であり、たんなる不平不滿にすぎない。」(『全集』第三卷九十三頁)。

コメント (2)
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