ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(67) 古墳時代(34) 石の宝殿(3)・長い空白期をもつ『風土記』

2019-10-08 10:34:55 | 大河・かこがわ

         長い空白期をもつ『風土記』

 もう少し『風土記』の話を続けます。

 『風土記』は編集されて後、まもなく姿を消します。

 何らかの事情で、厳重に保管されていたものの、その存在が分からなくなりました。

 そんな状況が、一変しました。

 江戸時代、何百年もの空白の期間を経て『風土記』がみつかったのです。

 『播磨国風土記』は、平安時代の中期以降に書写されたものが、江戸時代の終わりころ、寛政八年(1796)と嘉永五年(1852)再び写され、世に登場しました。

 つまり、『播磨風土記』は、まったく世に知られない空白の期間が数百年も続きました。

 この『風土記』の空白の間にも、「石の宝殿」は、近在はもちろん、広く不思議な大岩として世に知られていました。

 人々は、この岩についていろいろと想像し、風土記とは関係ない伝説がつくられ、いまに至っています。

 いつしか、この大岩は、「石の宝殿」と呼ばれるようになり、「神様の依り代(よりしろ:神の宿る場所)である」と、神となり、やがて社殿(生石神社)が建立されたようです。

つくられた伝承

 生石神社へ出かけました。そして、「日本三奇播磨国石之宝殿生石神社略記」のパンフレットをいただきました。

 そのパンフレットも、神代の昔、大穴牟遅(おおなむち)と少毘古那(すくなひこな)が、この大石を作ったという大石の起源を説明しています。

 これも、江戸時代につくられた新しい伝承です。

 「石の宝殿度は何者か・・・」を探し出かけましょう。(no4766)

 *写真:生石神社と石の宝殿(大石)

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大河・かこがわ(66) 古墳時代(33) 石の宝殿(2)・石の宝殿は『風土記』編纂の1世紀前

2019-10-07 07:31:18 | 大河・かこがわ

    石の宝殿は、『風土記』編纂の1世紀前

 石の宝殿は、宮城県塩竈神社の塩竈や宮崎県霧島の天の逆鉾と並んで、日本の三大奇岩と言われています。

 そして、「石の宝殿」は文献と考古学遺跡が一致する珍しい例です。

 造営年代は7世紀ごろだろうといわれていますが、伝承でいう物部守屋がつくったものであるなら6世紀後半となります。

 

 ・・・・『風土記』は、日本で最も古い書物の一つで、今から1300年ほど前の713年に大和朝廷から各国の①郡や里の名のいわれ、②産物、③地力、④山や川の地名、⑤伝承を書いて報告するように、と命令が出ました。その報告書が『風土記』となりました。・・・

 つまり、『風土記』が制作されたのは700年代(8世紀)です。

石の宝殿(大石)が造られてかららすでに100年ほどが経過しており、その時すでにこの大石はどのような目的で作られたのか分からなくなっていたようです。

     石の宝殿は、石棺か?

 『風土記』にはこんな記述があります。一部を書き下して紹介します。

 ・・・石の宝殿の近くの山に、伊保山(いほやま)という山があります。

 その名のおこりは、仲哀天皇が亡くなられた時、奥様の神功皇后が石棺(廬:いほ)づくりの職人を率いて、讃岐(香川県)で、石棺用の羽若石(はわかいし)を探されました。

 大来(おおく)という石づくりが、羽若石を石の宝殿の近くの山でみつけました。そのためこの山を美保山(伊保山)いいます。・・・

 以上の『風土記』の記述をもって「石の宝殿は石棺である」とする説は、やや強引すぎます。(no4765)

 *写真:謎の巨石、石の宝殿

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大河・かこがわ(65) 古墳時代(32) 石の宝殿(1)

2019-10-06 08:56:28 | 大河・かこがわ

                   石の宝殿

 先に、竜山石・天の磐船を紹介しました。順序として、次は「石の宝殿」を紹介しなければなりませんが、石の宝殿は、謎だらけの大きな石造物です。

 石の宝殿を古墳時代の項に含めるのは、少し無理があるかもしれませんがご辛抱ください。

       JR宝殿駅(ほうでんえき)

 「石の宝殿」の話」をJR山陽本線の「宝殿駅」から始めます。『兵庫史の謎(春木一夫著)』(神戸新聞総合出版センター)に、宝殿駅について、次の文章を見つけました。

 ・・・尾崎士郎の艶笑小説『ホウデン侍従』に、奇怪なふぐりの顔をした挿絵が描かれていたのを思い出す。

 戦争中、在日していたドイツの婦人たちは、この地を通過するたびに、駅員がまじめくさって、

 「ほうでん、ほうでん」と大声で叫ぶため、耳まで真っ赤にしていたという、いわくつきの駅だ。・・・・

       石の宝殿は生石神社のご神体

 「ほうでん」が、ドイツ語で「キンタマ」を意味するのであれば、ドイツのご婦人が、顔を赤らめたのも当然です。

 もちろん、以上の「ほうでん」は、今から訪ねる「宝殿(ほうでん)」とは関係がありません。

 歴史に、あまり関心のない人にとって、現在「ほうでん」は、耳慣れない言葉になっているかもしれません。

 宝殿駅から南西に1.5キロほど行くと生石神社(おうしこじんじゃ)に突き当ります。

 この神社に、不思議な大きな石(ご神体)があります。

 この御神体が「石の宝殿」で、「JR宝殿駅名」は、「石の宝殿」にちなんで命名されています。

 宝殿駅の北側のロータリーに石の宝殿のレプリカ(写真)がデンと置かれています。

 それでは、生石神社・石の宝殿を訪ねましょう。(no4764)

 *写真:石の宝殿のレプリカ(宝殿駅北側のロータリー)

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大河・かこがわ(64) 古墳時代(31) 聖陵山古墳(加古川市野口町)

2019-10-05 08:16:37 | 大河・かこがわ

     聖陵山古墳(加古川市野口町)

 写真は、野口町長砂の円長寺(昭和40年代の撮影か)です。

 この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っていますが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)です。

 もともと、前方後円墳であったのですが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえます。

 また、寺伝は、天文12 年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えています。

 この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられています。

 また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓と考えられます。

 ともかく、考古学では注目されている古墳です。

 この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験していますが、受難はさらにつづきました。

 第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘られました。

 そこで、加古川飛行場の通信部隊が通信業務をおこなっていたといいます。

 なお、「加古川飛行場の飛行機が、この壕にかくされていた」という説があるのですが、これは間違いです。

 いくらなんでも、この古墳の内部に飛行機は入りません。(no4763)

 *写真:昭和40年当時の円長寺(現在のお寺でありません)

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大河・かこがわ(63) 古墳時代(30) 時光寺古墳(高砂市阿弥陀町)

2019-10-04 09:28:41 | 大河・かこがわ

     時光寺古墳:高砂市阿弥陀町

 時光寺(じこうじ)の裏手に小高い丘があります。

 そこに、径46メートル・高土6.6メートルの円墳・周溝を持った二段の古墳があります。

 墳頂部には方形埴輪列と、外周に円形埴輪列、この墳頂周辺からは、甲冑・盾・靭(ゆき:矢を入れて背負う筒状の道具)・家・鶏形埴輪の断片が相当量出土しました。

 段部にも円筒埴輪がめぐっていたようで、崩れ落ちていましたが、この段の部分には馬形埴輪があったようです。

 墳頂のほぼ中心部には写真にあるように、石棺が東西に直葬されています。

 蓋の形は、かなり背の高い半円形に近い蒲鉾状断面形で、両長辺にそれぞれ二個の縄掛突起を持っています。

 全体に丁寧な作りで、石棺蓋全長は228センチメートル、幅は85センチメートル、突起を含めると123センチメートルです。

 長持形石棺とすれば小形の棺です。

 この棺は、蓋が露出されただけで、それ以上の発掘は行わないまま埋め戻されました。

 ただ、盗掘は受けていたようで、蓋石が僅かにずれており、下に棺身が存在したことは確かであったようです。

        消えた古墳群

 たまたま、この地が、瓦やレンガの生産に適した土層であったことから、その地に築かれていた古墳は、その後の瓦生産や、また近代・現代の土取り工事で、破壊され消滅してしまったようです。 (no4762)

 *写真:時光寺古墳頂上部発掘状況(梅原章一氏撮影・『高砂市史・第一巻』より)

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大河・かこがわ(62) 古墳時代(29) 愛宕塚古墳(あたごづかこふん・播磨町)

2019-10-03 08:55:33 | 大河・かこがわ

 愛宕塚古墳へ出かけました。

 古墳の周囲は、住宅が密集して、古墳時代を想像する雰囲気はありません。

 この古墳が、「愛宕塚古墳」と呼ばれるのは、写真にあるように古墳の頂には、愛宕大権現が祀られているためです。
      愛宕塚古墳(あたごづかこふん)
 播磨町の大中遺跡は、弥生時代前期から古墳時代中期まで続く複合遺跡です。
 そのため、同地に居住する人々の墓や支配者の墓が近隣に存在していたと考えられますが、大中遺跡の住人と愛宕塚古墳の関係は分かりません。
 大中遺跡人の墓地は、大中遺跡の発掘調中に大中台地西側で墓らしきものが確認されています。

潰目池等溜池、田畑の開墾等により破壊された可能性も考えられます。

いまのところ、大中遺跡の東約2キロメートル、標高22メートル(大中遺跡も標高13メートル)に位置する播磨町唯一の愛宕塚古墳が、大中遺跡と何らかの関連があると結論づけることできません。

愛宕塚古墳は、墳径約22メートル、高さ約2.2メートルートルの円墳で、周囲に約4.5メートルの堀があり、きわめてよく保存されている古墳時代中期の古墳と考えられています。
 堀の南部は、北部と比較して馬蹄形になっており、もともとの墳形は、円形でなく、「帆立貝式の古墳」ではないかとも考えられています。(愛宕塚古墳の実測図は、町史『阿閇の里』(60p)をご覧ください)
 近年まで、愛宕塚古墳の南西50メートルのところと、東約80メートルの地点に培塚(ばいちょう)かありました。
しかし、明治に入って、田畑開墾、土取りのため破壊され、今はなくなっています。(no4761)
  *『阿閇の里』参照、*写真:愛宕塚古墳

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大河・かこがわ(61) 古墳時代(28) 天の磐船(あまのいわぶね) 

2019-10-02 06:41:03 | 大河・かこがわ

       天の磐船(あまのいわぶね)

 「天の磐船(石棺の蓋)」は、高砂市阿弥陀町伊保山の南面、頂上から20㍍の地点で、半ば埋もれていました。

 この大きな石棺の「縄掛け」は、円盤状です。

 天の磐船は、ひっくり返っていると、ちょうど船のように見えたのでしょう。加古川下流城の家形石棺の中で「縄掛け」が円盤状のものは珍しく、これが唯一の例です。

 古い形式の長持ち形石棺の伝硫を受け継いでいるようです。

 大きさは、加古川下流で一番大きく、全長3メートル、幅1.3メートル 、厚さ60センチ、推定重量は4㌧もあるといいます。

 近辺で、この石棺にふさわしい大きな古墳は知られていません。古墳は、完全に破壊されてしまったのかもしれません。

 石棺のあった伊保山は有名な「竜山石」を産する竜山のとなりにあり、伊保山も山全体が「竜山石」でできています。

 この石棺は、山頂付近で加工されたと考えられます。

 平地で加工して標高100㍍の高さまで運搬したとは考えられません。

 近年、伊保山は、石材を採るため山が削られて、「磐船」の際までガケが接近してきました。 危険な状態になったので、昭和38年に山から降ろされ、旧高砂市教膏センター(曽根町)の庭に置か例ましたが、現在教育センター移転に伴い生石(おうしこ)の同センターの庭で展示さています。(no4760)

 *写真:天の磐船(石棺の蓋)

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大河・かこがわ(60) 古墳時代(27) 中山1号墳 : 加古川市文化センターで保存

2019-10-01 10:03:49 | 大河・かこがわ

    中山1号墳 : 加古川市文化センターで保存

 加古川市文化センターの歴史博物館へお出かけください。

 展示室の中央に大きな古墳があります。

 「精巧に造られているな・・・」と思われるかもしれません。

 これはデプリカ(模型)ではありません。本物の古墳です。

 中山1号墳は、もともとは加古川市平荘町中山にありましたが、権現ダムで水没したため、現在横穴式石室が加古川総合文化センター博物館の中に移築され展示されている古墳です。

 全長12m、玄室幅約2m、高さ約2.5mの両袖式。

 博物館の庭に石室が移築されるのはよくありますが、全長10m以上の大型石室を建物の中に移築するのは珍しい展示方法です。

 もともと、中山集落の西側に、3基の古墳が確認されていました。その1号墳が文化センターに移築されています。

 工事に伴って調査が行われましたが、報告はされていません。

 古墳の内部に入ることもできます。

 〈蛇足〉:昭和50年ごろ、中山集落と集落の熊野権現社は権現ダムの建設により水没しました。

 それに伴い、中山集落と熊野権現社は平荘町神木(こうぎ)の東に移動し、新しい集落は新中山と命名されました。

 熊野権現社は、うっそうとした木立の間にあり、石段を登りつめたところにある荘厳な神社だったのですが、新中山に立派な神社として再建されました。(no4759)

 *写真上:文化センターに移された中山 1号古墳。同下:古墳内部。(インターネットより)

 *『加古川市史(第四巻)』参照

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