(余話) 東播磨は 、「ボーダーの地域」
次の話題の前に移ります。
その前に、コーヒー・ブレイクです。
律令制度下で、直接に都(中央)の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。
大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれです。
播磨は摂津に接していますが、畿内ではありません。でも、畿内の強い影響を受けた畿外でした。
つまり、東播磨は、畿内と畿外のボーダー(狭間)に位置していました。
律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっています。
古代の播磨は畿内の勢力下にあったのですが、地理的には周辺部でした。
この周辺部は、常に緊張した政治的状況にさらされていたのです。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。
加古川・高砂地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にありました。
都(中央)にとっても加古川地方は、自らの安全を守るための最前線でした。
一方、加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、中央との結びつきを求める必要があったのです。
東播磨地方は、鄙(ひな)の地域では決してなかったのです。
そのため中央の豪族たちは、東播磨地方を重要な地域とし、煌びやかな中央の文化も、いち早くこの地域に伝えられたのです。
このことを念頭に置き今後の歴史をお読みください。(no4775)
*写真:加古川のながれ。古代より加古川あたりがボーダーの地域となった。