「石の宝殿」は敗者のモニュメント
青木一夫氏は、物部氏が大石を作ろうとした目的を「・・・物部氏は、日本古来の信仰である大きな岩などに霊力がやどるとする自然信仰もっていた。
とにかく、この東播磨の地で大石をつくり、その霊力で仏教の大和への侵入を防ごうとしたのではないか。つまり、大和に仏教が入る手前の東播磨の地でこの大石をつくろうとした」という説です。
少しだけ、つけ加えます。
物部氏と蘇我氏の戦いの結果は蘇我氏の勝利で終わりました。
この争いの中でつくられていた大石(石の宝殿)は、その後「敗者のモニュメント」として(未完成のまま)打ち捨てられたのです。
敗者のモニュメントは、その存在さえなにも許されないもので、それらは、ふつうは打ち壊されます。しかし石の宝殿は未完成品であり、打ち崩すには大きすぎ、頑丈すぎました。
蘇我氏の支配する社会では、大石については語られることも許されず、ひっそりとその姿を横たえているだけの存在になっていたのではないかと思われます。
これだけ大きな、モニュメントが語りつかれなく作られてから100年ぐらいでそのつくられた目的がわからなくなったのには作為を感じます。
「生石神社」は平安時代初期の記録に登場
石の宝殿をご神体とする生石神社は、やっと平安時代(養和元年・1185)の『播磨国内神明帳』に登場しますが、大きな神社ではなさそうです。
10世紀のはじめ、醍醐(だいご)天皇の時代に作られた規則である延喜式(えんぎしき)に、その名が見られる神社のことを「式内社(しきないしゃ)」といいますが、生石神社は「式内社」でもありません。
ということは、奈良時代から平安時代の初期のころは、まだ、ここには神社がなかったとも考えられるのです。(no4771)
*写真:石の宝殿(部分)とその回廊
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