地図で長楽寺の前のダンベ池・中池・皿池の場所を確認ください。
これらの池の水は、大藤山からの水を集めて、永室村の田畑を潤い続けました。
この地域は、土地が高く川がなかったので、これらの池の水にたよるより他に方法はありません。
ダンベ池・中池・皿池の水は、農民の命そのものでした。
昔は助永村・比室村
永室村は、明治9年まで、それぞれ助永村、氷室村と呼ばれていました。
明治9年に両村は合併して、それぞれの村名の一字をとって永室村としました。
合併の理由は、両村はこれらの池を共同で利用していたからです。
助永村・氷室村の百姓は、勝手にこの水を使うことはできません。
そのため、池の水は厳格に両村で管理されてきました。
両村は、水に関して互いに話し合い、取り決めをつくり、協力をしなければ村は成り立ちませんでした。
両村は、何かと村の枠を越えて、運営されたのです。
明治9年、両村の合併は、当然のように行われました。
池郷(いけごう)
このように、池を通じて結びついた村々・地域を「池郷(いけごう)」と言います。
ダンベ池の堤防の北東隅に「蓮池再興の碑」があります。
その碑の其檀部に「池郷中」(写真:右から読みます)とあります。
助永村、比室村はお互いに池の水を共に利用し、利害を共にする池郷でした。
碑文は、干ばつのために、池の水が不足し、蓮池の改修を行った天明から天保に生きた庄屋の記録です。
◇ダンベ池◇
地元の人は「ダンベ池」を「蓮池」と呼んでおられます。
昔は、お盆の頃には蓮の花が咲き、長楽寺はいっそう華やいだことでしょう。
*碑文については『めんめらの生きた道』(磯野道子)を参照させていただきました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます