ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(251):長楽寺(17)・地蔵信仰③

2012-03-17 07:31:03 |  ・加古川市西志方

  

    何が長楽寺を再興させたのか

 「長楽寺に檀家がほとんどない訳は?」(志方町を歩くno,248)で、次のように書きました。

「次の二つの出来事と年代に注目ください。

①寛永八年(1631)  檀家制度

②宝永三年(1706)  長楽寺再興

 Photo長楽寺は、三木の合戦のときに焼失し、その後途絶えていた長楽寺が再興されたのは宝永三年(1706)です。

この時は、すでに全ての家は檀家制度により、どこかの寺の檀家に所属していました。

従って、長楽寺には現在も檀家がほとんどありません」

    

   スポンサーはいたか?

檀家がなければ、新たにお寺を建設・維持していくことは一般的には非常に困難になります。

それでも、長楽寺は宝永三年(1796)年再興されました。

何がそれを可能にさせたのでしょう。

つまり、建設資金は、どのように集められたのでしょうか。

裕福なスポンサーがいたのでしょうか。

その場合、寺の記録で寄進者の名を知ることはできます。

長楽寺の場合は、大口の寄進者の名を見つけることができません。

他の理由を考えなければなりません。

永室(当時は比室村、助永村)など近隣の村々からまとまった献金があったのでしょうか。

これも、あまり期待がでません。永室村など、この近隣の村々は一般的にはあまり裕福な村ではなく、資金の援助は期待できなかったようです。そんな記録もありません。

   

   庶民の地蔵信仰に支えられた長楽寺

そうであるなら、長楽寺の建設・維持を「地蔵信仰の高まり」にその原因を考えざるを得ません。

長楽寺は、強力な庶民の地蔵信仰に支えられて集められた資金で建設され、維持発展されてきたお寺ではないかと考えざるを得ません。

長楽寺は、まさに庶民の信仰に支えられ建設・維持されてきたお寺です。

・・・・

長楽寺は、きっと再び多くの方々に支えられ必ず再建されるでしょう。

*写真:崩壊(昨年94日)前の長楽寺本堂

コメント
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