何が長楽寺を再興させたのか
「長楽寺に檀家がほとんどない訳は?」(志方町を歩くno,248)で、次のように書きました。
「次の二つの出来事と年代に注目ください。
①寛永八年(1631) 檀家制度
②宝永三年(1706) 長楽寺再興
長楽寺は、三木の合戦のときに焼失し、その後途絶えていた長楽寺が再興されたのは宝永三年(1706)です。
この時は、すでに全ての家は檀家制度により、どこかの寺の檀家に所属していました。
従って、長楽寺には現在も檀家がほとんどありません」
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檀家がなければ、新たにお寺を建設・維持していくことは一般的には非常に困難になります。
それでも、長楽寺は宝永三年(1796)年再興されました。
何がそれを可能にさせたのでしょう。
つまり、建設資金は、どのように集められたのでしょうか。
裕福なスポンサーがいたのでしょうか。
その場合、寺の記録で寄進者の名を知ることはできます。
長楽寺の場合は、大口の寄進者の名を見つけることができません。
他の理由を考えなければなりません。
永室(当時は比室村、助永村)など近隣の村々からまとまった献金があったのでしょうか。
これも、あまり期待がでません。永室村など、この近隣の村々は一般的にはあまり裕福な村ではなく、資金の援助は期待できなかったようです。そんな記録もありません。
庶民の地蔵信仰に支えられた長楽寺
そうであるなら、長楽寺の建設・維持を「地蔵信仰の高まり」にその原因を考えざるを得ません。
長楽寺は、強力な庶民の地蔵信仰に支えられて集められた資金で建設され、維持発展されてきたお寺ではないかと考えざるを得ません。
長楽寺は、まさに庶民の信仰に支えられ建設・維持されてきたお寺です。
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長楽寺は、きっと再び多くの方々に支えられ必ず再建されるでしょう。
*写真:崩壊(昨年9月4日)前の長楽寺本堂