加古川平荘山角の報恩寺の開基は慈心
『加古川市史(一巻)』の「報恩寺流律宗のながれ」の項に、次のような記述があります。
報恩寺のある旧印南郡平荘村山角(現:加古川市平荘町)の地は、もと印南荘内屏村といい、天文二年(1533)のある文書によれば慈心和尚開基の名刹です。
また、報恩寺の縁起では、和同六年(713年)慈心の開基としています。
「縁起」も古い記録も共に報恩寺の開基を慈心としています。
記録と縁起では、慈心について混乱がありますが、慈心和尚が報恩寺の開基に関係しているようです。
*慈心は、慈心覚房(1170~1243)のことで、藤原長房がその人です。
彼は、興福寺の中に常喜院を建て、律を起こした人です。
長楽寺の開基も慈心
長楽寺には開基等に関する文書等の記録は残っていませんが、縁起では「和銅六年(713)、慈心」の開基と伝えています。
報恩寺も長楽寺も開基は慈心和尚です。
これは、単なる偶然の一致でしょうか。
長楽寺についての詳細を調べたいのですが、長楽寺は、三木合戦で焼き打ちにあうなどで、文書等が焼かれ昔の長楽寺の歴史は全くわかりません。
ただ、境内に残る石造物などから鎌倉時代には相当の寺院であった想像できます。
長楽寺は、もと西大寺・真言律宗の寺院か?
もうひとつ、長楽寺と報恩寺との共通点をあげてみます。
報恩寺には、花崗岩の層塔があります。
長楽寺にも十三重の花崗岩の層塔の残欠があります。
地元の歴史家は、「この花崗岩の層塔は、もと西中の寺にあったものである」と指摘されていますが、私はもと長楽寺にあったのではないかと想像します。
この層塔は、花崗岩製です。当時、かたい花崗岩を加工できたのは奈良西大寺の伊派の石工集団だけでした。
ですから、長楽寺も西大寺と関係があった寺院と考えられるのです。
西大寺は、旧印南郡に印南荘を経営していました。
報恩寺は、印南荘の内・屏荘(平荘)あたりの経営のための寺院でした。
とすると、長楽寺は印南荘の内「志方荘」を経営(支配)に関わった中心の寺院であったと考えてもよさそうです。
*きょうの記事は、素人が、それもかなり強引な想像で書いています。今後、志方荘について調べてみます。史料等詳細をご存知の方はご教授ください。
*写真:現在の西大寺本堂
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます