ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(250):長楽寺(16)・地蔵信仰②

2012-03-16 06:40:29 |  ・加古川市西志方

   地蔵信仰

前号のブログをもう一度お読みください。一部再掲します。

・・・・

長楽寺が創建された江戸時代も、人々の困苦は大変なものがありました。

政治の圧制がありました。旱魃の苦しみがありました。生活は、苦しみの連続でした。

苦悩の生涯を送って死んで行った親しき人に対して、生き残った人は、痛恨の涙を流したのです。

子どもの死に対しては特別なものがありあました。

生きている者は生活の苦しみから逃れるために、そして死者のために必死で地蔵さんにすがりました。

このような、死者に対する痛恨の鳴咽と絶叫が、地蔵信仰を育てました。

地蔵信仰は、長楽寺だけの信仰ではありません。この時代の人々の必死の叫びでした。

地獄絵と十王(安楽寺)

010細工所の安楽寺に地獄絵が描かれ、十王像(写真)が安置されています。

安楽寺の西の門から入ると鐘つき堂があり、その傍の「十王堂」です。

この十王堂に、十七世紀後半の作と伝えられている「地獄極楽絵」が描かれ「十王像」が安置されています。

地獄絵は、地獄で苦しめられている人々、中ほどに救いの手を差しのべている地蔵菩薩、そして帳簿を見ながら判決を言い渡している「閻魔(えんま)さん」その左に極楽の絵と続きます。

   十王(じゅうおう)

十王は、生前の人々の罪を裁くために姿を変えている仏様です。 

仏教では死者の生前の行いを裁く仏は「閻魔さん」だけではありません。

死者の前に十人の仏様が現れて、各仏様の前で審判を受けます。

そのうち、五十七日目の裁判官が「閻魔さん」です。

その仏様たちが十王です。

あの恐ろしい形相の閻魔さんも、ほんとうは慈悲の地蔵菩薩の仮の姿であるとされました。

人々は、どこまでも地蔵さんを信じ、救いを求めたのです。(つづく)

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志方町を歩く(249):長楽寺(15)・地蔵信仰①

2012-03-15 07:18:07 |  ・加古川市西志方

 直接、長楽寺のことは出てきません。

 長楽寺を育てた地蔵信仰について考えてみます。

   地蔵信仰

Jizo_3「地蔵」という名のおこりは、地は万物を生ぜしめるものであって、植物は種子をまけば成長して葉、花、実を作り出すように地は偉大な恵み蔵しています。

地蔵は大地から生まれ、すべての衆生を救済する偉大な功力を蔵した仏さまです。

(写真の長楽寺の地蔵さんは、初めて大地から出現された時のお姿だといわれています)

地蔵は、民衆の苦悩をいやすことを専門業とする仏なのです。

しかも、生きた者の苦悩のみでなく、死者の苦悩をもいやす仏さまでした。

長楽寺が創建された江戸時代も、人々の困苦は大変なものがありました。

政治の圧制がありました。旱魃の苦しみがありました。

生活は、苦しみの連続でした。

苦悩の生涯を送って死んで行った親しき人に対して、生き残った人は、痛恨の涙を流したのです。

   せつなかいね・・・

子どもの死に対しては特別なものがありあました。

かつて日本では子ども死亡率が非常に高く、この罪なくして死んだ子供に対し親はどのような感情を持ったのでしょう。

「可愛そうに」「せつなかいね・・・」。

親は涙を流しつつ子供のことを思い出すばかりでした。

生きているうちに、「ああもしてやったらとか、こうもしてやったら・・・」とか、しきりに悔恨の思いが心をかすめました。

時には、苦しさゆえに間引きによる死もありました。

親は、己が生きてゆかねばならぬために、生まれたばかりの自分の子供を殺したのです。

そして、幼なくして死んだ子供の苦しさに、己のふがいなさに苦しみそして、罪と感じたのです。

生きているものは生活の苦しみから逃れるために、そして死者のために必死で地蔵さんにお願いをしました。

このような、死者に対する痛恨の鳴咽と絶叫が、地蔵信仰を育てました。

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志方町を歩く(248):長楽寺(14)・檀家制度

2012-03-14 00:13:09 |  ・加古川市西志方

檀家制度

Sarah_035檀家制度の話です。

檀家制度は、江戸時代の初め、寛永八年(1631に寺院の新寺建立禁止令などを通して、寺と檀家とが強く結び付くようになった制度です。

檀家制度により、すべての家はどこかの檀那寺に所属しなければならなくなりました。

あるお寺の檀家になると、寺院の新築・改築、本山上納金など、さまざまな経済的支援が求められました。

貞享四年(1687)、幕府は、檀家の責務を明らかにし、檀那寺への参詣や年忌法要のほかの義務を決めました。

元禄13年(1700年頃)には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになりました。

もし檀家がこれらつとめを拒めば、寺は寺請を行うことを拒否し、檀家は社会的地位を失い、村での生活はできなくなりました。

そのため、江戸時代は一般民衆に生まれた家(あるいは地域)の檀那寺の檀家となる以外の方法はなく、檀家は、寺の経営を支える組織としての役割を果たしました。

 現在檀家制度はなくなりましたが、いまでも寺は江戸時代から続く檀家に支えられているのが一般的です。

    長楽寺に檀家がほとんどない訳は?

次の二つの出来事と年代に注目ください。

①寛永八年(1631)  檀家制度

②宝永三年(1706)  長楽寺再興

長楽寺の歴史は次回のブログで少し触れますが、今日は上記の二つ出来事と年代に注目ください。

 長楽寺は、三木の合戦のときに焼失し、途絶えていた長楽寺が再興されたのは宝永三年(1706)です。

この時は、すでに全ての家は檀家制度により、どこかの寺の檀家に所属していました。

そんな時代に長楽寺は、地蔵信仰の高まりの中で、檀家にたよらずに広く庶民の信仰により支えられて再建されたお寺でした。

従って、長楽寺には現在も檀家がほとんどありません。

*写真:313日(火)の長楽寺

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志方町を歩く(247):長楽寺(13)・石仏発見

2012-03-13 06:37:07 |  ・加古川市西志方

長楽寺の裏の大藤山へ登りました。山頂近くで、二つの巨大な岩石が岩肌をあらわしている場所があります。その岩の前に板碑型石仏(写真)が安置されていました。

   

  大藤山で石仏発見

005長楽寺の縁起によると、寺は和銅六年(713)慈心上人の開基としています。

真言密教の寺でした。

縁起はともかく、ずいぶん古い寺のようです。

『志方町誌』によれば、「天正年間(1578)に、兵火にあって仏殿、僧房ことごとく焼失した」とありますが、この事件は当時の志方地方の状況からして史実と思われます。

その規模や寺のあった位置などは明らかでなく、宝永三年(1706)専空念教法師により再興、今日に至っています。

   

   幻の長楽寺はどこに?

平成16年、永室地区の大藤山ボランティア・グループ方が、幻の長楽寺跡を求め、山中を整備しながら、この幻の長楽寺を探索されました。

その時、山の頂上近くで一体の石仏を発見されました。

巨大な屏風のような岩石の前にある、高さ約110㌢、幅19㌢、奥行13㌢の板碑型の石造で、表面に20㌢の阿弥陀如来座像が彫られています。

加古川市文化財調査研究センターによれば、1600年前後のものと分析されています。

が、この石仏と幻の長楽寺との関係は分かっていません。

ただ、現在の長楽寺の境内にも同じような板碑型の石仏があります。

こちらの石仏は、1500年前後のものと推定されています。

   

   大藤山登山をしませんか

先日(2月中ごろ)、ボランティア・グループが整備された登山道をのぼりました。

大藤山は標高2511㍍の山で、高御位と違い頂上まで木々に覆われた山でした。

そのため、途中の山道では、どこを歩いているのか分からないほどでした。

ただ石仏の前だけが、ぽっかりと視界が開け、前方西に高御位山が、そして正面に瀬戸内海、さらにその向こうの淡路島までがくっきりみることができました。

日ごろの運動不足がたたり、心臓はバクバク・・・

ごろりと寝ころんで空を見ました。白い雲が流れていました。

こんな経験は久しぶりです。

冷たい北風も大きな屏風のような岩がさえぎり、ここの日だまりだけは春でした・・・

*「志方郷(第38号)」より、「大藤山・石仏発見」(文:三村隆子)参照

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志方町を歩く(246):長楽寺(12)・蛇が池の伝承

2012-03-12 07:14:17 |  ・加古川市西志方

 大藤山山麓の村々は、昔から打ち続く旱魃に苦しめられました。

 そんな苦しい生活と、長楽寺のへの思いが結びついて、蛇が池(じゃがいけ)の伝承は誕生したのでしょう。

蛇が池の伝承

2ab4dc6a大藤山の嶺を超え少し下ったところに「蛇が池」といって、昔は一町歩ばかりの広さの池がありました。

今では、山崩れのため埋まって小さくなってしまっていますが、どんな旱天でも水が絶えず、水面に鉄の錆が浮いていました。

この池には長楽寺の古い鐘が沈んでいるといわれ、池の主である大蛇がしっかりと抱いているから、見ることも、掘り出すこともできません。

昔から日照りの時は「鐘掘り」といって、村の人たちが鍬をかついでこの池へ出かけました。

池を掘ってこの鐘の寵頭(りゅうず)があらわれときっと雨が降る・・・」ということです。

    大蛇の怒りが雨を呼ぶ

この鐘は、天正の昔、秀吉勢が神吉城を攻めている時、秀吉勢めがけて一本の矢が北方から飛んできました。

矢には「谷」と銘がはいっていました。

調べてみると四キロほど北の谷の長楽寺から射こまれたものであるということがわかりました。

「よほどの強弓の者が長楽寺にあり」と、長楽寺に兵をさしむけました。

強弓の者は長楽寺のお坊さんであることが分かりました。

お坊さんは、「今はこれまで」と、本尊と鐘を背負って寺の焼けるのをあとに、大藤山を越えて北に逃げましたが、逃げ切れないと思い、鐘だけは蛇が池に住む大蛇に「この池に鐘を隠すから、自分が取りに来るまで誰にも取られないように守ってくれ・・・」と頼み鐘を池に沈めました。

それからは、池の水位が下がると、大蛇が鐘をみせまいと雨を降らすといわれています。

村人は、日照りが続くと雨乞いの歌を歌い「蛇が池」に行き、備中鍬やスコップで大きな穴を掘りました。

大蛇は鐘の龍頭(りゅうず)が見えそうになると、怒って雨を降らせたといいます。

 *『志方町誌』、「志方郷(第39号)参照

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志方町を歩く(245):長楽寺(11)・雨乞い②

2012-03-11 16:04:53 |  ・加古川市西志方

  水で苦労しました

「水で苦労するさけん、助永、構へ嫁にやるな」いうぐらいやってんで。

永室の中に助永、構、比室、新開という小字がある。

「水が足らんさけに、五分植えや、七分植えやいうて田植が全部でけへんのに、供出はきついし小作やったら年貢持っていかんなんし、ほんまに水でよう苦労したな」

「水がない年にな、田植でけへんいうて、綿をようけ作った年があるねで。

うちねは豆作ったけど綿作った家はな、綿の木に白い丸こい綿がぶつぶつと皮みたいなもん着て、でけんねで。

染屋やないけお金持っとったったさけんな。娘がようけあるいうて、その綿ようけ

買い込んだたそうなで。

その綿を糸に紡いで機織って着物こっさえたってんやろな。

綿作っても金に替えな食べられへんもんな」

私は雨乞いの体験を持つ古老に、一つの疑問を投げかけた。

  水の溜まるのが少ない!

422423c2_2「今頃やった'ら、雨が降らへん降らへんいよっても『雨乞い』やないけせんでも降りますやろ。

昔はそない水が足らなんだんですか。」

「昔は溝手がしっかりしとらへんさけに、水がようけ逃げて出てまいよったんと、草取すんのに水がようけ要ったさけんな。

何遍も草取すんのに、水の取り合いしてようけんかしよった。

永室の山は谷の中で、奥に山がないねな。

蓮池へ流れ込む水を出してくれる山は、大藤山の南側片面だけやさけん、水の溜るのんが少ないのだすわ。

それに木がよう茂ったら、水を抱いてまうさけん、よけい水の出が悪うてな。

山から出てくる水だけでは、永室中の田んぼへ入れるのに足らんのですわ。

原の大池からも水がくるねけど、それでも足らんのだすわ。

それに日でりが続いたりしたら、雨乞いせんなんことになるのでっしゃろな。

そえでも戦争中に、鉱山を掘る時に支える木にすんねいうて、鉱木用に木をようけ切って出してから、蓮池へちとようけ水が溜るようになりましたで」

*『めんめらの生きた道」(磯野道子著)より

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志方町を歩く(244):長楽寺(10)・雨乞い①

2012-03-11 07:57:06 |  ・加古川市西志方

永室の磯野道子さんが、姑(きよ)さんからのすばらしい聞き語り(村の風俗習慣)を著書『めんめらの生きた道』に書きのこしておられます。

それには、この地域が水で困ったことをも記録されていますので、その部分を二回に分けて掲載させていただきます。

(小見出しをつけています)

    雨乞い

「雨ごい たま乞い じゅうごいの(龍ごいの) 雲にしずくも ないかいな」(磯野道子さんが採集された地元に残る雨乞いの歌)

422423c2 ・・・・

日やけで、ひとっつも雨が降らへん年にな、田植がでけへんいうて雨乞いしてんで。

男の人が、昔の唐傘(からかさ)をさかとんぼに上向けて、そん中へ木でも竹でも、燃えるもんいっぱい入れたり、松の枝持ったり、小麦藁を竹の先に括ったりして、長楽寺へ集まってね。

長楽寺でご祈祷してもろてから、蓮池の土手へ出て雨乞いしよったったで。

松の枝や小麦藁持った人は、松明みたいに火付けて、それ振りまわしながら歌うとて土手の上を歩いていくね。

唐傘の火も、よう燃えて、火の粉が散ってきれかったで。

「おぱあちゃん蓮池まで見にいたったんか」

「うちは姉さんといっしょに、高まちまで見にいてん」

「高まちまで歌の声も聞こえてくんのか」

「そら天まで聞こえるように、大きな声でいよってのに、高まちの高い田んぼのあで畦)へあがったら、よう見えてよう聞こえたで」

「そえで雨が降ってったんか」

「さあ、雨乞いしたら、じっきに降ったんか、どないやったかわっせてもたけど、火イ燃やしたら、よう雨が降るねで」

    戦時中まで続いた雨乞い

私は実際に雨乞いに参加した人をたずねて、その時のようすを聞いてみた。

「水が足らんいうて、毎年のように雨乞いしよりましたで。

火をようけ燃やしたら、空気がうすなるさけん雲を呼んで雨が降るいうのは道理だっしゃろな。

雨乞いしたらやっぱり雨が降りましたで」

その後、こどもの頃に雨乞いを見たという数人の人に出会ったが、昭和の戦時中までは水が足りなくて、農家は水の苦労が絶えなかったらしい。

「それでも爾が降らへんのはどこの村も同じことで、蓮池の土手で雨乞いしよる時には、西牧も、西中も原の大池でも、どこの村でも、赤い火燃やして廻り夜のが見えよりましたで。

成井の村かしらんけど、高御位の上へ松明持ってあがりよんのも、見えよりましたで」

「どの村も雨乞いしよったけど、一番水に困っとったんは、永室やろな」(つづく)

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志方町を歩く(243):長楽寺(9)・貧しい村

2012-03-10 07:31:10 |  ・加古川市西志方

助永村の免相(めんあい)

◇永室村は、明治9年に助村と比村が合併してできた村です◇

『加古川市史(第五巻)』にある宝永二年(1752)助永村の明細帳の「免三つ三分」の数字に注目ください。

  一 高三百三拾九石七斗五升五合  免三つ三分

   内 十八町九反七畝二十九歩  田方 

     二町七反六畝弐拾七分   畑方

Fd58cb38 「免」は免相(めんあい)のことです。

「免相」は、年貢の賦課率のことで、助永村の年貢率は三割三分ということです。

 藩(姫路藩)としては、年貢が多いことに越したことはありません。

 しかし、農民の生活ができないほど多くの年貢は課すことはできません。

 そのため、収穫の多い村には多くの年貢を課しました。

 一般的に、年貢率の高い村の方が豊かな生活の村といえます。

 歴史の授業で、「江戸時代の農民の年貢率(免相)は、だいたい五公五民」と学習した。

 「五公五民」は、収穫の五割が年貢(五公)ということです。

 それにしても、助永村の免相(年貢率)が三割三分は非常に少ない数字です。

助永村は、貧しい村でした。つまり、助永は三割三分以上の年貢では、生活は成り立たないということを意味しています。

ない者からは、取ることができません。

    水に苦しみました

収穫の少ない理由は水でした。

大藤山の南面にある村で太陽はいっぱいあります。水さえ十分にあれば秋の稔りは約束されます。

しかし、ダンベ池・中池・皿池の水は十分でなかったようです。

その上に、少しでも雨の少ない年は、たちまちに旱魃となり、田畑は干上がったようです。

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志方町を歩く(242):長楽寺(8)・大藤山は水がめ

2012-03-09 08:16:04 |  ・加古川市西志方

いま、加古川市の中学生が社会科の時間に使っている『加古川市・高砂市全図』で、長楽寺のあたりをながめています。

大藤山(おおふじさん)は、西牧あたりから西飯坂の天神山方面へ続く山塊です。

その南に東西に連なる西牧・永室・西中の集落の屏風のような山塊です。

長楽寺は、その大藤山(おおふじさん)の懐に包まれたお寺です。

   大藤山は聖山

030ある学者が、「大藤山は聖山ですね」と、つぶやかれました。

どんな意味であったのか、後日お聞きしようと思いますが、大藤山は、まさしく聖山でした。

地図を眺めていると、大藤山は、西牧・永室・西中の人々を育んだ山であることが分かります。

昔から、水がなければ農業ができません。つまり、生活ができないのです。

川があれば、人々は川にその水を求めたでしょうが、このあたりに、川らしい川がありません。

とすると、水は山から流れ出る水にたよるより方法がありません。

大藤山は志方町山中から成井・西山・峠へと伸びる山塊とようすが少し違っています。

大藤山は、ボロボロの土で覆われた山です。

そのため、ここに降った雨は一気に流れてしまうのではなく、ある程度の保水はあるようです。

しかし、一度大藤山へお登りください。けっこう大藤山は急な山です。

山に保水力があるというものの、ここに降った雨は、谷に集まり、まもなく流れ下ります。

   大藤山は永室の命

長楽寺・永室に限って考えます。

大藤山の水は、永室の田畑を十分に潤すことができません。

そのため、水を必要な時に使えるように溜池がつくられています。

長楽寺の谷に集まった水は、ダンベ池・中の池・皿池で貯水されました。

そして永室地域の田畑を潤したのです。大藤山からの水はまさに、永室地区の人々の命の水でした。

水を供給する大藤山は、まさにこの地区の聖山でした。

その山にどっかり鎮座したのが長楽寺でした。厚い信仰を集めたのは道理です。

*写真:ダンベ池

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志方町を歩く(241):長楽寺(7)・延命子安地蔵②

2012-03-08 06:52:07 |  ・加古川市西志方

    

   延命子安地蔵菩薩半跏像

長楽寺の子安地蔵は、正しくは延命子安地蔵菩半跏像と言います。

本尊で治承二(1178)の作といわれています。

けやき材の一木彫りで、ずいぶん古いお像ですがほとんど欠損の跡がありません。

ただ、獄彩色の跡は剥落して左の肩のあたりにわずかにその名残をみることができます。

その姿勢が美しく、右ひざを立てて、その上に右手をつき、軽く耳をうけ、左足は下の伸ばして地につけ、左手に錫杖(しゃくじょう)を持っておられます。

このお姿は「延命地蔵経」に説く、初めて地蔵が大地から出現され、しばし蓮台に憩うて思案されているお姿であろうといわれています。

*「子安地蔵の像」は前号の写真をご覧ください。

豊かな頬、半眼のまなざし、その柔和な顔形から、平安時代の彫刻のようですが、肩からひざ、手足に流れる線、やや抑揚を持った衣の線、何気なく開いた指の自然の美しさなどに、鎌倉初期の特徴があるといわれています

   

  志方町で、ただ一つの重要文化財

Photo子安地蔵は、大正74月「国宝」に指定されましたが、文化財保護法の改定により昭和258月に、「国の重要文化財」に指定されました。

志方町では、ただ一つの重要文化財です。

子安地蔵は、秘仏として20年に一回ご開帳が行われます。

   

   子安地蔵は無事!

昨年の94日、長楽寺の裏山が崩れ、本堂は崩壊しました。

が、別棟の「地蔵堂」(写真)に安置された子安地蔵は、幸い難をのがれることができました。

 *『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照。

  写真:地蔵堂(長楽寺HPより)

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志方町を歩く(240):長楽寺(6)・延命子安地蔵①

2012-03-07 08:11:44 |  ・加古川市西志方

長楽寺が泥の下に埋まってしまいました。でも、必ず長楽寺は、よりすばらしい寺院として再生すると確信します。

このブログでは、長楽寺と災害のようすとを多くの方に知っていただくため、しばらくこれらを紹介します。

でも、私は長楽寺について多くを知りません。詳細について多くのご教授をお願いします。

そして多くの方に、長楽寺について知っていただきましょう。

最初は長楽寺のお地蔵さん(写真)の紹介です。

*お地蔵さんは、奇跡的に難を免れました。

   長楽寺のお地蔵さん①(重要文化財)

長楽寺のお地蔵さんは、近在では「子安地蔵」としてよく知られています。

2007117日のブログで長楽寺のお地蔵さんを紹介しました。

しかし、昨年の94日の土砂崩れで、周りの環境はずいぶん変わってしまいました。

   静かな、お地蔵さんのお寺

Jizo2007年のブログは本堂崩壊以前の長楽寺のようすを伝えていますので、再度掲載します。(2007116日の長楽寺)

・・・・

志方町永室の長楽寺に来ています。

集落から少し離れているためか音がありません。

先ほど、寺の前に車が着いたのかエンジンの音があっただけです。

この寺に素晴らしい地蔵様が安置されています。志方町で唯一の重要文化財です。

「延命子安地蔵」と呼ばれ、ふだんは安産祈願のため、多数の参拝の方があります。

この地藏は、様式から鎌倉時代から南北朝時代の作といわれ、座高71.7㌢で、台座をいれれば120.㌢の地蔵です。

ふつう、お地蔵さんは声聞形(しょうもんぎょう)、つまりお坊さんの形です。

お地蔵さんは、民衆の苦しみをいやす仏様あり、それも、生者の苦悩だけでなく、死者の苦悩もいやす仏様です。

地蔵崇拝は、貴族よりも民衆に、中央よりも地方に広がっています。

しかし、長楽寺のお地蔵さんは、左足を台座より垂下して、蓮華を踏み、右足は台座上に膝をたて、その上に右手を置き、軽く右頬にそえておられます。

今は、左手の持物(じぶつ)はないのですが、もともとは錫杖を持っておられました。

何を考えておられるのでしょう。(次号へ続く)

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志方町を歩く(239):長楽寺(5)・多くの方に支えられて

2012-03-06 06:38:35 |  ・加古川市西志方

 九月四日のこと(4) 

 *桐山(釈)文江さんの体験

  

長楽寺が潰れてしましました・・・

それでもたくさんの思い出の詰まった長楽寺がすべて無くなってしまったのだと思うと何とも言えない気持ちです。
 今でもしっかりと目に焼き付いているあの場所のあの掛け軸やあの花器、いつも掃除していた本堂の縁、そこから見る境内の景色、そんなものがふと今でもそこに行けばあるような錯覚にとらわれます。

多くの方に支えられました 

お礼申し上げます

025だけど後ろばかり振り返ってはいられません。
しっかりと前を見て復興して行こうと思っています。

実際、たくさんの方に助けて頂いて何とか現在に至っています。

今回のことでいかに私たちが多くの方に支えられているのかということ、あらためて実感いたしました。
 この場をお借りして御礼を申し上げます。

そして今でも毎週のように手伝いに来てくれる友達、忙しい時間を見つけて泥出しに来てくれる友達、宗派のお寺の方々。

いつも私たち家族のことを気にかけてくださる方々。
本当に、本当に感謝しています。

また後日、そんな皆さんのおかげで復興している今までの日々を書いて行きたいと思っています。

・・・・・

 まるで、小説の中の出来事のようです。

 でも、94日の出来ごとは、現実でした。

 桐山()文江さんにお許しを頂いて掲載させていただきました。ご感想・ご意見をお寄せください。

*写真:昨年の8月23日(地蔵盆)の長楽寺本堂

この日、お祀りの直前に急な夕立でした。

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志方町を歩く(238):長楽寺(4)・助かった

2012-03-05 08:12:42 |  ・加古川市西志方

 九月四日のこと(3)  *桐山(釈)文江さんの体験

   助かった!

025 午前4時を過ぎても雨は容赦なく降り続きます。

私たちは夜が明けるのを祈りながら待ちました。

子ども達は眠気に勝てず、布団で眠りに着いた午前5時25分頃、地域の消防団長が助けに来て下さいました。

とにかく荷物をまとめ、子どもをだっこして泥の川となった坂道を下り、消防と警察に連れられて公民館まで避難しました。
 坂道を下りながら、長楽寺を振り返ると大きな本堂の屋根が流されて傾いていました。
 あまりの光景に涙が止まりませんでした。
 確か公民館に着いたときは午前7時ごろだったと思います。

   愛犬ショコラも生きていた

Photo このとき家に置いてきた愛犬ショコラ(もちろん助けにいくつもりでした)はどうやってあの泥の川や流木、大きな石をこえて来たのかわかりませんが、家から自力で脱出し、近くの乗馬クラブのあたりをうろうろしていたところをそこの方に助けて頂いて、無事に引き取りにいきました。

その後一週間ほど公民館で避難生活をさせて頂き、今は同じ地区の空き家に仮住まいさせて頂いているのです。

今でも強い雨が降ると不安です。
子ども達も「また家が流されるの?」と聞きます。
私たちが生きていることは奇跡としか言いようがありません。
家族が1人も欠けることなく無事だったこと、それが今は何よりだったのだとそう思います。

*写真上:現在の長楽寺の境内(車の駐車しているところに本堂があった)

 写真下:愛犬ショコラ(長楽寺HPより)

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志方町を歩く(237):長楽寺(3)・大丈夫やで!

2012-03-04 07:29:59 |  ・加古川市西志方

  九月四日のこと(2)   *桐山文江さんの体験

   「大丈夫やで!」

Photo_2せめて流されるときは子ども達と一緒に離れないようにとそれだけを思っていました。

長女(4歳)にはリュックを背負わせ、その中に飲み物とおかしを入れました。

もしも何かの奇跡でこの子だけ生き残ったらと思ったのです。

下の子(2歳)はたぶん1人では無理だろうからせめて私が離さないでおこうと思いました。

子ども達を怖がらせないように懐中電灯を子ども達の座るソファに向かって照らし、「大丈夫やで、大丈夫やで」となんども言いました。

それはもちろん自分に言っているようなものでした。

2時過ぎ頃、また雨音に混じって地鳴りのような音と激しい水の流れる音がしました。確実に何かが来る!と感じました。

「こわいよこわいよ」このときばかりは私も恐怖で子ども達を抱えながらそうつぶやいていました。

   本堂が流れた

そしてその後、主人が「本堂が流れた」と言いました。
「まさか」とみんな信じられない気持ちでしたが、外が真っ暗で確かめようもありません。

地鳴りがしなくなり、雨音だけになると私はベランダやトイレの窓からなんとか外の様子が見えないかと懐中電灯で照らして見ますが、とにかく見える範囲はすべて泥の川。

東の水路は濁流でアスファルトがめくれ上がり、もはや車での脱出も不可能なことがわかりました。

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志方町を歩く(236):長楽寺(2)・長楽寺つぶれる

2012-03-03 06:21:20 |  ・加古川市西志方

長楽寺につて、しばらく書きたいと思います。

   長楽寺が潰れました!

長楽寺さんのご住職の長女の方が書かれた、生々しい報告を何回も読み返しました。

ご家族の方が生きておられたのが奇跡のようです。

前号で「許可を得て、このブログでも掲載できたらと考えています」と、書きましたが、さっそく「94のこと、あれが事実でした。人が死んでいくときって、きっとこんな風に祈るしかないんだろうなと思いました」という感想と共に掲載のお許しいただきましたので、4回に分けて紹介します。

*挿絵・写真と小見出しをつけています。

九月四日のこと(1)

Photo_2今日は9月4日の土砂崩れのときのことを書きたいと思います。

私たち寺族のものは住職と坊守(住職の妻)そして今この記事を書いている私(長楽寺で生まれ育った住職の長女)とその主人、そして娘2人の6人家族です。

土砂崩れがあったのは9月3日深夜でした。正確には9月4日(土)の午前1時過ぎから1時30分の間です。

その日は私も娘達を寝かしつけてから起きていました。というのも雨が尋常じゃないのと、山からの水がすごい勢いで流れてきていたので、避難命令とか出ていないかとネットで調べたりしていたのです。
 1時過ぎごろ雷のような音が雨音に混じって聞こえてきました。最初は雷かと思いましたがすぐにこれは何か違うと感じ、父と母に「なんか雷みたいな音がするけどちがう!やばい!逃げなきゃ危ないよ!」と言いました。

母もやはり心配でカーテンを開けて外の様子を見たりして起きていました。父は「雷じゃないか」とそれでものんきでしたが、私や母の様子で起きてきて外を見て「これはやっぱりおかしい」と思い、私の主人と一緒に本堂を見に行きました。

その帰り、すでに本堂と居住スペースの間の座敷のある古い庫裏が流れ出していたのです。あわてて流れ出した庫裏の間を駆け戻り、外につないでいた愛犬ショコラを家に入れるとその直後、そのつながれていた柱は土石流とともに流されていったそうです。

当然メインにしていた台所と応接室は西の壁が土石流でやられて大量の土砂がなだれ込みました。それと同時に家は停電しました。

「庫裏が流された、台所も土砂がきた!」という父の声に私はパニック娘二人をかかえ、「どこに逃げたらいいの~!!!」と叫びました。
 父は「そこがいちばん安全や!」と言いましたが、家が流されるほどの土石流がいつここにやって来るかもしれません。真っ暗な中、母は必死に119番をしますが「とにかく安全なところに避難してください」といわれるだけ。

もう絶望的でした。

*写真:崩壊した長楽寺本堂

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