ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(259):長楽寺(24)・十三重層塔残欠②

2012-03-25 07:50:30 |  ・加古川市西志方

「志方町を歩く(254)」で長楽寺の「十三重層塔残欠」を紹介しました。

今回の報告は、その続きとしてお読みください。「十三重層塔残欠②」としておきます。

  十三重層塔残欠②

少し、復習をします。

  長楽寺の十三重層塔の残欠は基礎と笠が残り、ともに花こう岩製です。

  復元されると、その総高は約570cmであり、十九尺塔として造られたものでしょう。

  鎌倉中期(1250年頃)の形式を示しています。

  長楽寺の東南に当たる志方町西中(写真下)の墓地に同式の笠が三個あり、もと一具のものと考えられています

  専門家は、この石塔は鎌倉時代初期のもので、県下における最古の層塔であると指摘しています。

塔はもともとに西中に存在したのか?

Shikata_1_016長楽寺と志方町の西中の墓地の「十三重層塔残欠」を見学した時、「両層塔とも元はてっきり長楽寺にあり、その一部が何らかの理由で、西中の墓地に移動したもの」と思い込んでいました。

そして、元の長楽寺の創建の年代をいろいろ想像してしまいました。

 その後、「志方郷(27号)」で、地元の郷土史家・上月昭信氏がこの塔について次のように紹介しておられることを知りました。

紹介しておきます。

塔の屋根部分が置かれている。西中墓地の入り口に、かつて「七尾山八王寺」という寺院が存在したといわれる。

現在も小字として「八王寺」があり、このことを物語る。

志方町誌には「伝承によれば天平年間行基菩薩の開基と伝え、本尊は釈迦牟尼仏で四天王を配置した相当の伽藍であり、焼失して廃寺となる」「西中毘沙門堂の本尊である毘沙門天王は七尾山八王寺のものである」と記している。

行基開基の伝承は別にして、鎌倉期に「七尾山八王寺」が存在した可能性は高く、志方町内に散在する十三重塔残欠は、もともとこの寺院に造立されていた塔の散らばったものといえる(「志方郷・27」より)

 上月氏は、長楽寺の層塔の残欠はもともと西中にあったものとされています。

そして、長楽寺と西中の残欠の外にこの層塔の一部(写真)が、最近観音寺(志方町)の境内で発見されたことも紹介されました。

 先日、観音寺の墓地へこの層塔の一部を撮影に出かけました。

 墓地の一番高くなっている北の所に残欠の一部はありました。

説明がありませんので、このブログの写真と同じ石造物を探してください。

それにしても、長楽寺の十三重の層塔の残欠は、西中にあったものでしょうか。

もし、長楽寺にあったとすれば、長楽寺の創建の一つの手掛かりにもなり、西大寺の真言律宗との関係が考えられます。

コメント
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