『稲美町史』には木綿の栽培とならんで、印南印村のタバコ栽培について紹詳述しているので紹介しておきます。
印南新村のタバコ栽培
慶長6年(1601)ポルトガル人宣教師が渡来した時、徳川家康に献上した中にタバコと種子がありました。
その後、10年ほどで喫煙の風習が全国に広まったといわれています。
当時は、延命長寿、万病の治療に効果があると信じられていたようです。
幕府は、その後次第にその害を認識するようになり慶長17年(1612)以来、何度となく喫煙禁止令を出しています。
でも、効果はなかったようです。
喫煙の風習は、止まなかったばかりか、各地にタバコの特産地が現れました。
印南新村もその一つで、タバコの特産地として広く知られるようになりました。
グラフは、寛政2年(1790)の印南新村の作物作付け状況を示しています。
タバコは、田畑の植え付けの約1割を占めています。
寛政2年(1720)は、木綿の専売制度のはじまる40年ほど前であり、この段階では綿作は、まだ全田畑の13%にとどまっています。
それにしても、水田(稲作)が少ないのに注目してください。
印南新村は、よほど水に恵まれていない畑作の地域だったようです。
なおグラフの大角豆とあるのは「ささげ」のことです。
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