ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(11):印南野台地⑧・(民話)印南野の野猪

2009-11-08 22:20:29 |  ・稲美町印南野台地

印南野は、江戸時代になり本格的に開拓がはじまりました。

 水が乏しかったため長い間、人の入植を拒んでいました。古代から印南野は街道筋の一部を除いて随分寂しいところでした。

そのため、印南野(台地)には、こんな民話が伝わっています。

 (民話)印南野の野猪◇

 D97d7cb2 ・・・・印南野は、寂しいところでした・・・・

西の国から一人の旅人が都へ急いでいた。

 日が暮れてしまった。辺りを見渡したら、一軒の小さな、今にも壊れそうな小屋がありました。

 夜がふけたが、その夜は、なかなか寝つけませんでした。暗闇を通して遠くから念仏を唱える声が伝わって不気味に聞こえてきます。松明をかざし、葬式のようでした。

 家の前まで来るとピタリと止まり、土を掘り、棺を埋めはじめたのです。

 作業は終わったようです。時間が過ぎました。

じっと墓を見ていると、なにかが動きだしました。

 「はて?」とよく見ると、裸の人が土の中から出てきました。そしてこちらへ向かってきたのです。

 「危ない!・・」と思い、旅人は家を出て、その怪物に切りつけました。

「ギャー」

確かに手ごたえがありました。

 旅人はあまりの恐ろしさに、後を見ず、いちもくさんに走りました。

人家のあるところにたどりついたころ、夜が明けました。

 この話を聞いた村人は、旅人と一緒にその場所へ引き返しました。

 そこには、大きな野猪が切り殺されていた・・・

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稲美町探訪(10):印南野台地⑦・幻の遷都論

2009-11-08 10:23:44 |  ・稲美町印南野台地

200677のブログ「首都・加古川(幻の遷都論)」で、関東大震災後の新首都探しの事情を紹介し、加古川の地は、有力な日本の首都の候補地にあがったことを書いた。

 もう一つ、幻の遷都論がある。  

  幻の遷都論

D3c521c6 平清盛の時代である。

 平家は、急速に勢いを弱め、京都を追われ、神戸の福原へ遷都した。

 神戸は、港町としては最適だが、弱点があった。

 神戸は坂の街で、後ろには六甲山が控えている。

 大きな平野がない。港を支える後背地がない。

 清盛は、港(大輪田泊)や新都・福原を支える場所が欲しかった。

 そのあたりの事情を『兵庫探検(歴史風土)』(神戸新聞社)の一部をお借りした。

 「・・・福原に居着いたものの、新都としては規模が小さい・・・・清盛は、一度は代替地を探そうとした。

 摂津国の昆陽野(こやの)、播磨国印南野(いなみの)あたりを候補地として、いろいろ考えたようだ・・・」

 東播、特に印南野から加古川にかけて、平家の勢力は伸びており、がっちりと土地を押さえていた。

 このことも、印南野を新都にしようと考えた理由と思われる。

 結果、印南野は水不足が主な原因で候補地から外れていったようである。

 平家滅亡後、加古川地方の平家領は、源氏の支配するところとなり、関東から武士がこの地に多く流入した。

 加古川城主の糟屋、高砂城(戦国時代の高砂城)主の梶原などはその代表的な例である。

*写真は、印南野台地(稲美町から東の風景)

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