ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(34):江戸の村①、金肥・牛

2009-11-28 22:12:45 | 稲美町

  金肥・干鰯(ほしか)

江戸時代中期以降は、綿・タバコ・蔬菜を商品としての作物の栽培が増加しました。

肥料として、従来からの藁(わら)・藁灰・げす(人糞尿のこと)そして、米籾などに加えて、干鰯(ほしか)などの金肥がつかわれました。

 *金肥:代金を払って購入する肥料

綿の栽培などには干鰯は欠かせない肥料でした。

そのため、肥料購入の費用は農民にとってかなりの負担でした。

文政2年(1819)の印南新村の史料によれば、干鰯1500貫を銀3貫目で購入しています。

これは現在の貨幣価値にして2300万円にものぼると言われています。一村の干鰯の費用に、これだけの出費があったのです。

百姓のため息が聞こえてきそうです。

   

現代では農業の近代化により農村地域でも牛馬の姿を見かけることはなくなりました。

江戸時代においては、牛馬とりわけ牛の役割は重要なものでした。稲美町域における牛の頭数は、次のようでした。

Puaru_182_3 国安村    25疋  (宝暦14年・1764

六分一村   20疋  (明和元年・1764

野際新村    7疋  (明和元年・1764) 

中一色村   15疋  (明和元年・1764) 

岡村     65疋  (宝暦14年・1764

出新村    11疋  (宝暦14年・1764

北山村    42疋  (元文2年・1737

印南新村   30疋  (元文2年・1737

野寺村    17匹  (宝暦14年・1762

 *宝暦14年と明和元年は重なります

 耕作用の牛は村高100石あたり9疋が標準といわれています。稲美町域の村はどのようであったのでしょう。

 岡村7.1匹、国安村・六分一村3.2疋です。

野際新村・出新村等の20匹を越えている村があるのですが、ほとんどの村では全国標準からみて、かなり低いといえます。

印南新村ではなんと2.5疋でした。

*今日の記事も詳しくは、『稲美町史』をお読みください。

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稲美町探訪(33):印南新村はタバコの特産地

2009-11-28 08:46:29 | 稲美町

『稲美町史』には木綿の栽培とならんで、印南印村のタバコ栽培について紹詳述しているので紹介しておきます。

  印南新村のタバコ栽培

4990598 慶長6年(1601)ポルトガル人宣教師が渡来した時、徳川家康に献上した中にタバコと種子がありました。

その後、10年ほどで喫煙の風習が全国に広まったといわれています。

当時は、延命長寿、万病の治療に効果があると信じられていたようです。

幕府は、その後次第にその害を認識するようになり慶長17年(1612)以来、何度となく喫煙禁止令を出しています。

でも、効果はなかったようです。

喫煙の風習は、止まなかったばかりか、各地にタバコの特産地が現れました。

印南新村もその一つで、タバコの特産地として広く知られるようになりました。

866ebd16_2 グラフは、寛政2年(1790)の印南新村の作物作付け状況を示しています。

タバコは、田畑の植え付けの約1割を占めています。

寛政2年(1720)は、木綿の専売制度のはじまる40年ほど前であり、この段階では綿作は、まだ全田畑の13%にとどまっています。

それにしても、水田(稲作)が少ないのに注目してください。

印南新村は、よほど水に恵まれていない畑作の地域だったようです。

なおグラフの大角豆とあるのは「ささげ」のことです。

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