金肥・干鰯(ほしか)
江戸時代中期以降は、綿・タバコ・蔬菜を商品としての作物の栽培が増加しました。
肥料として、従来からの藁(わら)・藁灰・げす(人糞尿のこと)そして、米籾などに加えて、干鰯(ほしか)などの金肥がつかわれました。
*金肥:代金を払って購入する肥料
綿の栽培などには干鰯は欠かせない肥料でした。
そのため、肥料購入の費用は農民にとってかなりの負担でした。
文政2年(1819)の印南新村の史料によれば、干鰯1500貫を銀3貫目で購入しています。
これは現在の貨幣価値にして2300万円にものぼると言われています。一村の干鰯の費用に、これだけの出費があったのです。
百姓のため息が聞こえてきそうです。
牛
現代では農業の近代化により農村地域でも牛馬の姿を見かけることはなくなりました。
江戸時代においては、牛馬とりわけ牛の役割は重要なものでした。稲美町域における牛の頭数は、次のようでした。
六分一村 20疋 (明和元年・1764)
野際新村 7疋 (明和元年・1764)
中一色村 15疋 (明和元年・1764)
岡村 65疋 (宝暦14年・1764)
出新村 11疋 (宝暦14年・1764)
北山村 42疋 (元文2年・1737)
印南新村 30疋 (元文2年・1737)
野寺村 17匹 (宝暦14年・1762)
*宝暦14年と明和元年は重なります
耕作用の牛は村高100石あたり9疋が標準といわれています。稲美町域の村はどのようであったのでしょう。
岡村7.1匹、国安村・六分一村3.2疋です。
野際新村・出新村等の20匹を越えている村があるのですが、ほとんどの村では全国標準からみて、かなり低いといえます。
印南新村ではなんと2.5疋でした。
*今日の記事も詳しくは、『稲美町史』をお読みください。