ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(24):伊左衛門物語②・伊左衛門の怒り

2009-11-19 08:59:00 | 稲美町

  押し寄せる増税

野谷新村は、元禄六年(1693)、野寺村と草谷村の百姓によって開発が進められた村で、両方の村の名をとって「野谷新村」と名づけられました。

石高は、元禄15年(1702)で55.5石、正徳2年(1712)で164.7石、10年で急速に石高を伸ばし、家数も55軒ほどになりました。

寛保二年(1742)、松平明矩は姫路に入部後、さっそく大庄屋を通じて百姓衆が願い出たと言う形式で増税に取りかかりました。

武士というのは、どこまでもメンツにこだわるものです。

特に、税金の安い新田に対しては厳しく増税を迫りました。

印南台地の村々は、新田が多く、まともに、その影響をうけました。

   伊左衛門の怒り

74272381 西条組の大庄屋・沼田平九郎には、日頃から「代官に取り入ってゴマをすっている」などと悪い噂が絶えませんでした。

他の大庄屋達は、新田年貢の引き上げに際し、各村の庄屋の意見を聞いたりしていたのですが、平九郎は独断で行っています。

また、野谷新村にあった溜池を他村の百姓が埋め立てて新田にしようとした時、村人は反対しました。

にもかかわらず、平九郎は新田にすることを認めてしまいました。

それに対して、藩の役人が池の検分に来た時、野谷新村の庄屋の次右衛門が、役人に「新田を認めないように」と嘆願したところ、これは受けつけませんでした。

次右衛門は、後日藩役所に直訴したため、平九郎は激怒しました。

そして、次右衛門は庄屋役を取り上げられ閉門を命ぜられたことがありました。

沼田平九郎と野谷新村との関係は、険悪な状態になりました。

このようなことがあった翌、寛延二年(1749)、朝鮮使節来日があり、その接待費として西条組に300両が割り当てられたのです。

その内、野谷新村へは約51両が割り当てられました。

村の高(収穫量)からいっても不当に大きな負担です。

そんな金は、ありません。そのための金を借りるため平九郎に頼んだところ、彼は印を押すことを拒否したのです。

野谷新村の百姓の平九郎に対する憎しみは、日に日に増すばかりでした。

特に、伊左衛門は当初から開発にあたった百姓で、村で重きをおかれた組頭でした。この時、61才でした。

「くそったれ・・・平九郎め!」「このままでは村がつぶれてしまう・・・」

平九郎に対する憎しみが心のそこから湧きあがってくるのでした。

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