高薗寺に張り紙が・・・
そんな時でした。寛延二年(1749)正月10日ごろからあちこちに「西条組大庄屋を打ちつぶすべし」との張り紙をみるようになりました。
正月の10日、伊左衛門は、たまたま野寺村の高薗寺へ参詣したところ、観音堂に張り紙をみつけました。
それには「ご用金とご加免(年貢の引き上げ)について願いがあるので、16日西条組大庄屋へ罷り出る(まかりでる)ことになった。
村々残らず参加せよ。もし、不参加の村があればその村を打ちつぶす。
加古新村と野谷新村へも行きがけに見回るので加勢せよ」というものでした。
伊左衛門は、ちょうど境内に居合わせた西條組下村(現:八幡町下村)の安兵衛に、「本当だろうか」ときいたところ、「風聞や張り紙の趣旨は間違っていない。・・・私も、昨年“市川での集会”から帰る途中、藩の手先になり下がった大庄屋のうちつぶしを書きつけた紙を竹に挟んで2・3ヶ所に立てておいた」と打ち明けるのでした。
後日談ですが、一揆の後、安兵衛は逮捕され、よほど厳しい訊問であったのでしょう。取調べ中に牢死してしまいました。
藩の裏切り
少し説明が必要です。
「稲美町探訪(23)」で寛延元年もくれようとする12月21日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した・・この時は、百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました」と書きました。
少し付け足します。
三千人もの百姓が集まったニュースはすぐにお城へ伝わりました。
すぐに役人が駆けつけてきたのです。
そして「お前等の願いは何か」と申されたので、百姓衆は「この度の大風により百姓は苦しんでいます。なにとぞ、年貢米減免を願いたい・・・」と訴えると、役人は、「願いの件は良くわかった。主だった者を残してこの場を引きさがってくれ、悪いようにはしない・・・」
百姓はどこまでも人間が良いものです。てっきり話し合いが行われるものと思っていました。
主だった11人を残して村々へ引きあげたのです。
でも、この11人は牢獄につながれてしまいました。
百姓の藩に対する恨みは、ますます燃えあがりました。
伊左衛門、石の宝殿に決起文を書く
安兵衛と別れた伊左衛門は、張り紙の内容と安兵衛の話を合わせ考え、騒動を起こして平九郎の家をうちつぶすことを決心しました。
そう決めた伊左衛門は、さっそく11日に印南郡の石の宝殿(生石神社)の大石に自筆で「西条組大庄屋平九郎殿を来る16日にうちつぶす。
西条組だけでもつぶせるが、この人物は姫路領でも特に恨みをかっているので手伝いにまいらるべし」と書いて、貼り付けて帰りました。
翌日の12日は、生石神社(おおしこじんじゃ)の初午祭りで、参詣が多いので、この日を選んだのです。
さっそく12日、平九郎宅打ちこわしの風聞は、猛烈な速さで近辺の村々に広がりました。
伊左衛門は、村の者に「風聞であろう・・」と何食わぬそぶりで否定はしたのでしたが、問い詰められて覚悟をうちあけ「一揆が起きた場合、村中に難儀が及ぶので団結しなければいけない」と村内の百姓を神社に集めました。
大半の百姓がこれに応じました。
これは、伊左衛門の働きかけや前庄屋の次右衛門の支援があったことはもちろんですが、何よりもお上のなされよう、それにへつらう大庄屋の態度に百姓たちは、がまんがならなかったのです。
いよいよ16日の当日です・・・
*写真は、現在の高薗寺の観音堂
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