西条組の平九郎宅を打ちつぶしのニュースは、姫路藩の百姓衆の恨みに火をつけました。
1月16日に、西條組からはじまった一揆は、1月の終わりごろから2月にかけての頃もっとも激しく燃えあがりました。
この間に打ちつぶされた大庄屋・庄屋・豪商宅は57軒にもおよびました。
2月に入り、藩の意を受けた亀山本徳寺などの説得により、一揆は終息にむかいました。
播州は、播磨門徒衆として知られる浄土真宗の影響が強い地域でした。
厳しい処罰
一揆の後に待ち受けていたのは、首謀者の逮捕と厳しい取り調べでした。
牢につながれた者は、実に345人にのぼりました。
翌年の秋に判決が下り、9月23日、伊左衛門、そして前之庄(夢前町)の滑甚兵衛(なめらじんべえ)ら5人は市川河原で処刑、さらし首となりました。
伊左衛門は、取調べ中に死亡しましたが、遺体はこの時まで塩漬けにして保存されていました。
伊左衛門の遺体を磔刑に
小説ですが、『播磨寛延一揆・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)』(成星出版)の最後を読んでおきましょう。
「・・・九月二十三日に、・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を磔にされた。
・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。
日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。
夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色にそめ染めぬいていたという・・・・」
野谷新村からは、死罪1名、牢死1名、遠島2名、追放や国払い3名、過料45名とほとんどの者が処罰を受けました。
そして、村へは過料として約十二両の支払いが命じられました。
結果的に、伊左衛門と野谷新村の行動は、播磨全藩一揆の火付け役になったので、重い刑となりました。