水の確保は、加古新村開発当初から行われたと思われます。
加古大池の水源は、となりの母里地区の風呂谷池のあまり水と池周辺の水を集めていました。
さらに、寛文9年(1669)、水確保のため水路拡張と6か所の新たな池が造られました。
加古新村の開発が非常な勢いで進みました。
母里地区からの自然流を水源とする新溜池による灌漑は、たちまちに限界に達してしまいました。
大溝用水
そこで、延宝8年(1680)、草谷川を水源とする画期的な計画が立てられ、草谷川下流の八ヵ郷へ非灌漑期に草谷川から取水することを願い出ました。
協議では「田畑にあまり水を使わない7月から翌年4月までの期間に加古大池や入ヶ池に水を貯蔵しておくことができる」との了解を得ることができました。
もともと、水のきわめて不安定な草谷川からの取水が可能になったのは、姫路藩の指導統制が大きかったと言えます。
が、川郷と加古新村との粘り強い調整作業があったのは当然のことです。
交渉はまとまりました。
草谷川の上流に堰を造り、大池までの用水路を造りました。
これが、大溝用水(おおみぞようすい)です。
この大溝用水の水は、野寺村内を通り、加古大池や入ヶ池に注ぎました。
その後も開発はさらに進み、水不足になりました。
そのため、宝永七年(1710)大溝用水の補強のため大溝用水取水口のさらに上流数百メートルの地点に河原田堰を造り取水しました。
加古新村の灌漑用水は開発当初から大小十余のため池が造られてきましたが、大溝用水の開削により、加古新村の用水問題は著しく好転しました。
*地図の赤い部分が加古大池の灌漑範囲(地図は、クリックすると拡大します)