ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(22):印南新村誕生②・一公九民の村

2009-11-16 22:51:45 |  ・稲美町水を求めて

 印南新村の免相は一割 

江戸時代の年貢は、百姓個人にではなく、村にまとめて課されました。

 それを庄屋が中心になり、村人に年貢を割り振るのです。

それにしても、印南新村の免相は、驚くばかりの低さです。

*免状の「免相(めんあい)」は、年貢率のことです。

下の印南新村に残る、宝暦十年(1760)の「年貢免状」を読んでみましょう。

      辰年免相之事    印南新村

  一、高 四百八拾弐石三斗九升      新田

     取米 五拾四石九斗五升弐合    壱ツ壱分四厘

  一、高 百九拾五石弐斗九升二合     新田

     取米 二拾弐石二斗九升二合    壱ツ壱分四厘

  一、高 参百四拾九石七斗八升六合    新田

     取米 参拾九石八斗七升六合    壱ツ壱分四厘

9fb4f90e なんと、印南新村の免相は約1割(黄色の部分)です。

 税は年貢だけではないのですが、この免相の低さは特別です。

 当時の年貢は、生産の高い村々は高く、少ないところは低くおさえられていました。

 生産の少ない地域から多くの税を取れなかったのです。

印南新村からは、約1割より多くの年貢を取れば、百姓の生活が成り立たないということです。

 もっとも、免相(税率)が低いのは、母里地区の村々に共通していますが、とりわけ印南新村の人々の生活はまずしかったようです。

それでも、将来に希望を持って、この地を離れようとしませんでした。

印南新村の農民の願いは「水」でした。

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稲美町探訪(21):印南新村誕生①・水がない

2009-11-16 13:02:54 |  ・稲美町水を求めて

  水がない

印南新村の話をしましょう。

印南新村の土地は、一段高くなっています。

高い土地であると言うことは、当然水が得にくい地域ということです。

土地が高くても、田を潤す川があればよいのですが、ここにはそんな川はありません。

そのためか、開発も他の地域よりも遅れてはじまりました。

明細帳によれば、印南新村の開発は正徳二年(1727)のことです。

『加古郡史』によれば、「・・正徳元年、摂津境の嘉右衛門というものが開発し、大庄屋に任命された。

ところが34~5年後になり、奢り増長し、金品を取り込んで不正をはたらきました。そのため、藩主からただされた上に追放と」とあります。

ともかく、印南新村の開発は、正徳年間に始まっています。

   印南新村:民間委託事業

Fd58cb38 加古新村の開発と違うのは、印南新村の開発は商人による開発であったことです。

17世紀の新田の開発は、多くの場合藩の援助でおこなわれました。

やがて藩の財政は、火の車となり、開発の援助どころではなくなりました。

18世紀の新田開発は、もっぱら商人の財力による開発にたよるようになります。

今日の言葉では、民間委託です。

印南新田もこのような新田開発の一つでした。

もう一度、強調しておきます。印南新田は、高い土地の新田でした。

加古新田より、さらに高いところにあるため、灌漑用水の確保はきわめて困難でした。

印南新田では、新たに池をつくろうとすると、その都度、近隣の村々から抗議がありました。

近隣の村としても、自分たちの村に流れてくる水が少なくなることは死活問題ですから当然といえます。

しかし、印南新村には、民間委託の開発のため加古新村の場合のような藩のバックアップがありません。

そのため、新村をつくり、それまでの用水権に入りこむことは容易なことではなかったのです。

それでも、印南新村の百姓は、水に苦しみながらも印南野台地に夢を託しました。

しかし、天は非情でした。

台地を湿らせる、わずかばかりの雨さえ奪うことがしばしばでした。

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