稲美地域の綿作①
雨の少ない印南台地の村々は、旱魃の災害を逃れることはできません。
そのため、多くを畑作にたよる農業にならざるをえませんでした。
姫路藩では、古くから綿の栽培が行われていましたが、寛政十年(1798)頃から木綿の栽培を奨励しました。
後に、木綿を藩の専売品にしました。それにともなって、畑での木綿の栽培が、ひじょうに盛んになりました。
稲美地区の綿作の状況を調べる前に、当時の姫路藩の木綿の専売制のようすを調べておきましょう。
河合寸翁(かわいすんのう)
藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化5年(1808)、藩には73万石の借財がありました。
これは、年貢米9万石を8年間、そっくりつぎ込んでも払いきれない額でした。
もう小手先の政策ではどうにもならない数字です。
しかし、家老の河合道臣(みちおみ-後の河合寸翁)は、播磨地方が木綿の産地であることに目をつけ、綿布を姫路藩の専売品にし、藩の財政たてなおすことに全精力を賭けました。
当時、姫路綿(布)の主な送り先は大坂でしたが、寸翁は、綿を藩の専売品として、江戸への直送する方法も採用しました。
勿論、さまざまな妨害がありました。それまでの商の慣習を壊すのですから当然です。
しかし、綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政6年(1823)やっと江戸への木綿専売が幕府に認められました。
これは、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。
ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができたのです。
この、姫路藩の経済政策により、稲美・加古川・高砂地域は一大・木綿の栽培地帯となりました。
*写真:河合寸翁像(姫路神社)