ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(21):印南新村誕生①・水がない

2009-11-16 13:02:54 |  ・稲美町水を求めて

  水がない

印南新村の話をしましょう。

印南新村の土地は、一段高くなっています。

高い土地であると言うことは、当然水が得にくい地域ということです。

土地が高くても、田を潤す川があればよいのですが、ここにはそんな川はありません。

そのためか、開発も他の地域よりも遅れてはじまりました。

明細帳によれば、印南新村の開発は正徳二年(1727)のことです。

『加古郡史』によれば、「・・正徳元年、摂津境の嘉右衛門というものが開発し、大庄屋に任命された。

ところが34~5年後になり、奢り増長し、金品を取り込んで不正をはたらきました。そのため、藩主からただされた上に追放と」とあります。

ともかく、印南新村の開発は、正徳年間に始まっています。

   印南新村:民間委託事業

Fd58cb38 加古新村の開発と違うのは、印南新村の開発は商人による開発であったことです。

17世紀の新田の開発は、多くの場合藩の援助でおこなわれました。

やがて藩の財政は、火の車となり、開発の援助どころではなくなりました。

18世紀の新田開発は、もっぱら商人の財力による開発にたよるようになります。

今日の言葉では、民間委託です。

印南新田もこのような新田開発の一つでした。

もう一度、強調しておきます。印南新田は、高い土地の新田でした。

加古新田より、さらに高いところにあるため、灌漑用水の確保はきわめて困難でした。

印南新田では、新たに池をつくろうとすると、その都度、近隣の村々から抗議がありました。

近隣の村としても、自分たちの村に流れてくる水が少なくなることは死活問題ですから当然といえます。

しかし、印南新村には、民間委託の開発のため加古新村の場合のような藩のバックアップがありません。

そのため、新村をつくり、それまでの用水権に入りこむことは容易なことではなかったのです。

それでも、印南新村の百姓は、水に苦しみながらも印南野台地に夢を託しました。

しかし、天は非情でした。

台地を湿らせる、わずかばかりの雨さえ奪うことがしばしばでした。

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稲美町探訪(20):加古新村誕生⑥・村方万事議定証

2009-11-15 17:57:36 |  ・稲美町加古

   村方万事議定証

023 加古新村の開発が許可されてから二年後の寛文三年(1663)には家数も149軒になりました。

この年、移住した146軒の百姓は、才兵衛・喜平衛・治兵衛に誓約書を出しています。

誓約書は「村方万事議定証(むらかたばんじぎじょうしょう)」と呼ばれています。

「万葉の森」の隣の郷土資料館に展示されていますので、見学ください。

この誓約証は5項からなり、才兵衛など3名の百姓を「頭百姓(とうびゃくしょう)」として、彼らの特権的な地位を保証し、百姓の感謝の気持ちを表わしています。

第4項を読んでおきましょう。

「加古新村の百姓になり田畑を分けていただき感謝しております。

その恩に報いるため、今後高に応じて村の諸役はもちろん、米銭の入用の時は私たちが負担いたします。

もし私たちが困ったことがあっても、協力くださいというようなことは、決して申しません」

この誓約証も時代がたち、開発当初のことが遠い過去となった江戸時代の後期になると、子孫にとっては負担と感じるようになり、開発百姓の子孫と村が訴訟、そして和解するという出来事がおこっています。

   加古新村には寺院がない

第5項は、百姓は全て開発百姓の出身である、中西条・上西条・下村の3寺院の檀家になるというものです。

そのために加古新村には、今に至るまで寺院がありません。

*写真は「村方万事議定証」の部分

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稲美町探訪(19):加古新村誕生⑤・大溝用水

2009-11-14 21:34:05 |  ・稲美町加古

水の確保は、加古新村開発当初から行われたと思われます。

加古大池の水源は、となりの母里地区の風呂谷池のあまり水と池周辺の水を集めていました。

さらに、寛文9年(1669)、水確保のため水路拡張と6か所の新たな池が造られました。

加古新村の開発が非常な勢いで進みました。

母里地区からの自然流を水源とする新溜池による灌漑は、たちまちに限界に達してしまいました。

  大溝用水

1983da44 そこで、延宝8年(1680)、草谷川を水源とする画期的な計画が立てられ、草谷川下流の八ヵ郷へ非灌漑期に草谷川から取水することを願い出ました。

協議では「田畑にあまり水を使わない7月から翌年4月までの期間に加古大池や入ヶ池に水を貯蔵しておくことができる」との了解を得ることができました。

もともと、水のきわめて不安定な草谷川からの取水が可能になったのは、姫路藩の指導統制が大きかったと言えます。

が、川郷と加古新村との粘り強い調整作業があったのは当然のことです。

交渉はまとまりました。

草谷川の上流に堰を造り、大池までの用水路を造りました。

これが、大溝用水(おおみぞようすい)です。

この大溝用水の水は、野寺村内を通り、加古大池や入ヶ池に注ぎました。

その後も開発はさらに進み、水不足になりました。

そのため、宝永七年(1710)大溝用水の補強のため大溝用水取水口のさらに上流数百メートルの地点に河原田堰を造り取水しました。

加古新村の灌漑用水は開発当初から大小十余のため池が造られてきましたが、大溝用水の開削により、加古新村の用水問題は著しく好転しました。

*地図の赤い部分が加古大池の灌漑範囲(地図は、クリックすると拡大します)

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稲美町探訪(18):加古新村誕生④・加古大池

2009-11-13 11:29:41 |  ・稲美町加古

   加古大池

57cec654 加古新村は、比較的順調に歩みだすことができました。

これは、あまり他に例をみません。

というのは、新しい村をつくるということは、池などを造り、まず水の確保がされなければなりません。

新しく池などを造ると、既にある近隣の村では流れてくる水が少なくなります。

当然のこととして抗議があります。

加古新田の場合は、加古大池等を造りました。

加古大池の水は、雨水だけでは当然足りません。

草谷川からの水を使うことになります。

草谷川の水は、川郷が水を使わない時期に加古大池に草谷川から水を引くとはいえ、水利権の一部を放棄したことになります。

当然、下流の野村・下村・宗佐・船町・上西条・中西条などの草谷川の川郷からの抗議があるはずです。

加古新村の場合、それがあまりなかったのです。

理由は、何といっても加古新村の開拓が姫路藩の強い支援の下に進められたことです。

藩をバックにした新田開発のため、川郷の農民は表立って反対できなかったのでしょう。

また、新田開発の中心になった才兵衛・喜平次・治兵衛が、同じ川郷の中西条・上西条・下村からの出ていることで、加古新村は川郷の枝村的な性格を持っていたためと考えられます。

 用語の整理をしておきます。

◇川郷(かわごう)◇

江戸時代、同じ川筋、あるいは水源を同じくする流れによって池を造り、用水を取る村々

 *写真:現在、兵庫県最大の規模を誇る加古大池

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稲美町探訪(17):加古新村誕生③・才兵衛、加古新村と命名

2009-11-12 22:29:23 |  ・稲美町加古

  加古新村誕生③・才兵衛、加古新村と命名

027 万治四年(1661)、開拓が認められた時、 才兵衛は「才兵衛の祖先よりの苗字・加古から加古新村と名づけたい」と申し出ました。

しかし、「苗字を村名にすることはできない」と認められませんでした。

 そこで、才兵衛は、新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけることを許された。

 加古新村、沢才兵衛の誕生です。

才兵衛・治兵衛・喜平次は、加古新村の「頭百姓(とうびゃくしょう)」として新村に居住しました。

 開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となり、延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請しました。

姫路藩は、この新村の開発を進めるために援助をおしみませんでした。

新田村の池溝普請の人夫として10.217人を動員し、これを完成させました。

そして、この時人夫一人一日に7合5勺宛を支給した。これにより加古大池の基が作られた。

加古大池については、次号で調べることにします。

 *写真は、加古の八幡神社

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稲美町探訪(16):加古新村誕生②・開拓許可おりる

2009-11-12 22:09:35 |  ・稲美町加古

江戸時代になり、平和な時代が到来しました。それに伴って人口は増加し、新田開発を促しました。藩も開発を奨励し・支援しました。

加古新村に新田開発の様子をみましょう。

  

加古新村誕生②・開拓許可おりる

1336ed24 加古新村の開発は万治元年(1658)加古才兵衛の開発願に始まりました。

加古新村の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。

 「中西条村の才兵衛は、26才の時から、庄屋を勤めていました。

 村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結びました。

 さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。

 才兵衛は、上西条の喜平次に印南野台地の開拓を熱心に説きました。

 喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金を心配しました。

 才兵衛は、資金のことを親類の下村の治兵衛にも相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合いました。

 大庄屋を通じて、姫路藩に開拓を願い出ました。

願いを請けた藩は、二人の役人をさっそく現地に向かわせました。

しかし、あまりの荒れ地に驚き「・・・かようなところに実り候(そうろう)こと思いもよらず。

しかるところを上様に申し上げ候こと存じよらず。なんと不覚者か・・・」と三人をしかりつけました。

それでも沢兵衛たちはひるみませんでした。

彼らには実績から得た自信がありました。水を得る方法等を熱っぽく役人に話しました

役人たちは、だまったままでした。

後日、呼び出されて「願いの通りにするので土地の絵図を提出するように」と命じられたのです。

万治四年(1661)二月、正式に開発の許可がおりました。

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稲美町探訪(15):加古新村の誕生①

2009-11-11 10:48:06 |  ・稲美町加古

加古新村の誕生①

73084eaa 江戸時代のはじめの頃まで、印南野台地には、広大な原野が未開発のまま残っていました。

とにかく水がなかったのです。

江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、その理由を大石慎三郎氏は、次のように説明されています。

「・・・天下分け目言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)

つまり、戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたというのです。

江戸時代、現代の稲美町域では、幸竹新村・中一色新村・和田新村・野際新村・国岡新村・出新村・蛸草新村・印南新村・野谷新村・加古新村など、多くの新村()が開かれました。

最初に、加古新村(現:稲美町加古)の開拓のようすをみていきましょう。

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稲美町探訪(14):印南野台地⑪・降水量

2009-11-10 14:47:15 |  ・稲美町印南野台地

印南野台地は水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

それに、水を集める範囲が狭い。

その上に、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

本論に入る前に、稲美野台地に降る雨についてみておきましょう。

  稲美町の降水量

Ef29d8ff 図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。

 平均降水量は、日本海側で多く20002250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。

印南野は、きわめて雨の少ない地域となっています。

一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。

兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

   苦難に立ち向かった人々

印南野台地には多くの多く溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な条件でした。

つまり、印南野台地は、地質的な、地形的な、そして少ない降水量と言う不利な条件の中で農業をいとまなければならなかったのです。

さらに水利権という社会的な条件が加わります。

そのため、厳しい歴史を刻んでいます。

そんな祖先の足跡をたどることにしましょう。

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稲美町探訪(13):印南野台地⑩・入ヶ池の伝承

2009-11-10 00:01:58 |  ・稲美町印南野台地

 北山の川上真楽寺(しんぎょうじ)縁起に、次のような「入ヶ池」の伝承があります。

入ヶ池の伝承

005_2 都が明日香にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・」と言い残して姿を消しました。

弥吉四郎は、天皇にそのことを申し上げ、この地の開拓にとりかかりました。

ある年でした。夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

毎年、水が足りなくなるので、前年から上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

が、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。

十数年、池はそのままになっていました。

ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる人が夢で不思議な僧に出会いました。

その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。

これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。

堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

村人を集めて池の築造がはじまりました。

 人柱になったお入(おにゅう)

5cff5b8b_2 その時でした。

ひとりの美しい女が通りかかりました。切り伏せて人柱にしてしまいました。

その後、堤は切れなくなりました。

この美しい女は「お入(おにゅう)といったので、この池は入ヶ池と呼ばれました。

 738年、ある村人が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。

姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。

村人は、驚き急いで帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇である。

たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。

村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂は池からはなれられない。いま、このような姿で現れたのである・・・

おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。

そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」

そういうと、姿がなくなりました。

    写真は、現代の入ヶ池です。入ヶ池は、確かに江戸以前の古い池ですが、飛鳥時代にまでさかのぼる築造となると若干疑問で平安時代から鎌倉時代ではないかと思われます。入ヶ池については後に、再度取り上げてみたい。

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稲美町探訪(12):印南野台地⑨・天満大池の伝承

2009-11-09 13:12:12 |  ・稲美町印南野台地

兵庫県はもともと降水量が少ないために、溜池をつくり灌漑が行われてきました。

兵庫県の溜池の数は、全国一位です。

そのうちでも淡路島と播磨に溜池が集中しています。

印南野台地のため池は、その規模の大きなのが特徴です。

<msnctyst w:st="on" address="稲美町" addresslist="28:稲美町;"></msnctyst>

 稲美町の加古にある「加古大池」は県内第一位、「天満大池」は第二位、北山にある「入ケ池」は第五位の規模です。

印南野台地のそれらの池のほとんどは、江戸時代と明治以降に造られていますが、「天満大池」と「入が池」は、その歴史は古く、水の少なかった印南野台地では比較的早く開発された地域です。

 天満大池と入が池について、少し紹介しおきましょう。

今日は、天満大池の伝承です。

  

  天満大池 

天満大池はかつて「岡の大池」とも「蛸草大池」とも呼ばれ、白鳳三年(675)に築かれたといわれています。

「蛸草大池」の名称は、1666年の絵図にもあり、おそらく「蛸草庄」を潤す「大池」として名づけられたのでしょう。

この天満大池には、次のような伝承があります。

天満大池の伝承

E3a1760f 室町時代前期にあたる1390正月のころでした。

ある僧がこの地にやってきて天満神社に逗留することになりました。

このころ夜になると雑魚(ざこ)が、プカプカ浮かぶのでした。

人々は怪しんで、このことを僧に相談すると、僧は「大池に弁財天はあるか」とたずねました。

村人は「ありません・・」と答えると、僧は「このような大池には、きっと竜が住んでいるはずだ。

これは竜の仕業である。島を築いて弁財天を祀るがよい・・」といいました。

村人は急いで島を築き弁財天を祀ると、その怪しいことがビタリと止んだといいます。

*弁財天は、女神でもとの姿は蛇です。

弁財天は、人々に富をもたらし、水を司る神としてあがめられていました。

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稲美町探訪(11):印南野台地⑧・(民話)印南野の野猪

2009-11-08 22:20:29 |  ・稲美町印南野台地

印南野は、江戸時代になり本格的に開拓がはじまりました。

 水が乏しかったため長い間、人の入植を拒んでいました。古代から印南野は街道筋の一部を除いて随分寂しいところでした。

そのため、印南野(台地)には、こんな民話が伝わっています。

 (民話)印南野の野猪◇

 D97d7cb2 ・・・・印南野は、寂しいところでした・・・・

西の国から一人の旅人が都へ急いでいた。

 日が暮れてしまった。辺りを見渡したら、一軒の小さな、今にも壊れそうな小屋がありました。

 夜がふけたが、その夜は、なかなか寝つけませんでした。暗闇を通して遠くから念仏を唱える声が伝わって不気味に聞こえてきます。松明をかざし、葬式のようでした。

 家の前まで来るとピタリと止まり、土を掘り、棺を埋めはじめたのです。

 作業は終わったようです。時間が過ぎました。

じっと墓を見ていると、なにかが動きだしました。

 「はて?」とよく見ると、裸の人が土の中から出てきました。そしてこちらへ向かってきたのです。

 「危ない!・・」と思い、旅人は家を出て、その怪物に切りつけました。

「ギャー」

確かに手ごたえがありました。

 旅人はあまりの恐ろしさに、後を見ず、いちもくさんに走りました。

人家のあるところにたどりついたころ、夜が明けました。

 この話を聞いた村人は、旅人と一緒にその場所へ引き返しました。

 そこには、大きな野猪が切り殺されていた・・・

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稲美町探訪(10):印南野台地⑦・幻の遷都論

2009-11-08 10:23:44 |  ・稲美町印南野台地

200677のブログ「首都・加古川(幻の遷都論)」で、関東大震災後の新首都探しの事情を紹介し、加古川の地は、有力な日本の首都の候補地にあがったことを書いた。

 もう一つ、幻の遷都論がある。  

  幻の遷都論

D3c521c6 平清盛の時代である。

 平家は、急速に勢いを弱め、京都を追われ、神戸の福原へ遷都した。

 神戸は、港町としては最適だが、弱点があった。

 神戸は坂の街で、後ろには六甲山が控えている。

 大きな平野がない。港を支える後背地がない。

 清盛は、港(大輪田泊)や新都・福原を支える場所が欲しかった。

 そのあたりの事情を『兵庫探検(歴史風土)』(神戸新聞社)の一部をお借りした。

 「・・・福原に居着いたものの、新都としては規模が小さい・・・・清盛は、一度は代替地を探そうとした。

 摂津国の昆陽野(こやの)、播磨国印南野(いなみの)あたりを候補地として、いろいろ考えたようだ・・・」

 東播、特に印南野から加古川にかけて、平家の勢力は伸びており、がっちりと土地を押さえていた。

 このことも、印南野を新都にしようと考えた理由と思われる。

 結果、印南野は水不足が主な原因で候補地から外れていったようである。

 平家滅亡後、加古川地方の平家領は、源氏の支配するところとなり、関東から武士がこの地に多く流入した。

 加古川城主の糟屋、高砂城(戦国時代の高砂城)主の梶原などはその代表的な例である。

*写真は、印南野台地(稲美町から東の風景)

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稲美町探訪(9):印南野台地⑥・聖武天皇の印南野巡行

2009-11-07 23:26:21 |  ・稲美町印南野台地

結論を先に書いておきます。神亀三年(726)、聖武天皇は、印南野巡幸を行っています。

この時の巡行で、天皇は稲美町まで足を伸ばしていないようです。

   

  聖武天皇の印南巡幸

Hp_040 神亀元年春二月、24才の首皇子が即位しました。

聖武天皇です。

天皇は、即位をすませると各地に行幸をしています。

行幸が決まると道路の修理、仮宮の造営などの負担は農民に重くのしかかりました。

若い天皇や宮廷人の意識は、そのような農民の苦しみとは、隔絶したところにあったようです。

優雅な楽しみに重きを置いた行幸であり、ほとんど政治的な関連はなさそうで、風光明媚な地を求めての遊園の旅であったようです。

 聖武天皇は、神亀三年(726)三月、笠金村や山部赤人の歌人とともに印南野へ巡行しました。

播磨地方は、他の巡行地と同様、伝承や屯倉を通じて大和政権と古くからのつながりがあった地域で、気軽な巡行と言えそうです。

そして、この行幸では印南野にあまり関心を抱いていたとは思えません。

 山部赤人の「印南野 浅茅押しなべ さ寝る夜の 日長くしあれば、 家し偲はゆ」や作者未詳の「家にして 我は恋いなむ 印南の 浅茅がうへに 照りし月夜を」等、印南野を詠んだ歌があるのですが、その多くは、印南野の海辺を詠っています。

 笠金村が、この行幸で詠んだ一首を紹介しておきます。

 「行きめぐり見とも飽かめや 名寸隅の船瀬の浜に しきる白波」

  *名寸隅(なきすみ)・・・現在の江井島港といわれています。

  

仮宮はどこ?

それにしても、聖武天皇はどこに仮宮を造営したのでしょうか。

確定できていません。

魚住町の長坂寺(ちょうはんじ)の近くに長坂寺廃寺跡があり、そこが宮跡とする見解もあります。

その他にも宮跡の候補地はあるのですがどの候補地も現在の明石市に属しています。

聖武天皇の印南野行幸は、稲美町まで、足を伸ばしていないようです。

  *写真は、現在の江井島港の夕暮れ

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稲美町探訪(8):印南野台地⑤・文学にみる印南野(2)

2009-11-06 21:49:58 |  ・稲美町印南野台地

文学にみる印南野(2)

 Puaru_092 印南野は、万葉集に多く登場します。

 *まずい英訳をつけておきます。

《作者不明》

家にして 吾は恋なむ 印南野の 浅茅が上に 照りし 月夜を(巻7-1175)

 (家に帰って、恋しく思い出すだろうな。印南野の浅茅の上に照っていた月夜を)

  I would think after going home of this beautiful moon shining over the thaches of the Inamino Plateau.

《柿本人麻呂》

  稲日野(印南野と同じ)も 行き過ぎがてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ (巻3-252)

  I was cruising off the broad Inamino Plateau. Sailing was slow.

  As I was considering many things, the Kakono-ShimaIsland came into my sight.

 (広々とした稲日野の近くの海を航行していた。船足がはかばかしくない。いろいろと物思いにふけっていると、やがて恋しい加古の島が見え出した。)

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稲美町探訪(7):印南野台地④・文学にみる印南野(1)

2009-11-06 11:02:17 |  ・稲美町印南野台地

文学にみる印南野

 私たちの生活の舞台である印南野(いなみの)は、しばしば文学にも登場します。

 清少納言は『枕草子』で、印南野を嵯峨野についで二番目にあげています。

45a06812  

 野は、嵯峨野さらなり。

印南野。

交野(かたの)。

飛火野(とぶひの)。

しめ野。

春日野。

そうけ野こそ、すずろにおかしけれ・・・・

 *すずろにおかしけれ・・・・・心ひかれて、趣がある。

 清少納言が、野について述べているところで、印南野を二番目に取り上げた理由は分かりません。

 特別な個人的なつながりや思い出があったとも考えられません。

 とすれば、印南は中央(京都)でも広く知られていた地名であったようです。

 印南野がもっとも多く登場するのは、なんと言っても『万葉集』です。

 (山部赤人)

 印南野の 浅茅押しなべ さねる夜の 

ながくしあれば 家し偲はゆ (巻六ー九四

 《いなみ野の短い茅(ちがや)を押しなびかせて寝る夜の日数がつもったので、家が恋しくなった》

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