加古新村の誕生①
江戸時代のはじめの頃まで、印南野台地には、広大な原野が未開発のまま残っていました。
とにかく水がなかったのです。
江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、その理由を大石慎三郎氏は、次のように説明されています。
「・・・天下分け目言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約60~70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・
戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)
つまり、戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたというのです。
江戸時代、現代の稲美町域では、幸竹新村・中一色新村・和田新村・野際新村・国岡新村・出新村・蛸草新村・印南新村・野谷新村・加古新村など、多くの新村(田)が開かれました。
最初に、加古新村(現:稲美町加古)の開拓のようすをみていきましょう。