藤四郎宅全焼
そのため、いったん火事になると手がつけられなかったため火事は恐れられ、警戒されていました。
しかし、火事はしばしば発生しています。
寛政2年(1790)3月19日、時刻は真夜中零時ごろのことでした。
印南新村の藤四郎宅から出火し、家一軒・馬小屋・納屋は全焼でした。
さいわい、隣とは離れていたため類焼は免れ、怪我人もなく、牛馬にも別条がありませんでした。
庄屋・組頭等村役人は、藤四郎に火事の原因を問いただしています。
(藤四郎)
19日の晩、食事も終わりかまどの灰をとって、納屋に入れておきました。
不注意なことでしたが、すぐ側に、わら、柴があったことに気がつきませんでした。
灰の側の火の粉がその藁・柴に燃え移ったと思います。
火は、たちまちに屋根に燃え移りました。
村中からも、かけつけて水をかけてくれましたが、風が強く残らず燃えてしまいました。
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出火の原因は、藤四郎の家内の者の火の不始末と断定され、藤四郎は国安村の円光寺でしばらくの謹慎を余儀なくされています。
市兵衛宅焼失の一件
その外に、『稲美町史』は国安村市兵衛宅の焼失の一件を書いています。
安永9年(1790)正月10日、この日、北山村の「えびす神社」へ参詣した国安村の弥七郎外10人が市兵衛宅に立ち寄り、弥七郎からタバコの火をもらい、しばらく世間話をして帰りました。
そのため彼らに嫌疑がかけられました。
弥七郎らは、火事とは関係がないと主張しています。
その結果について史料は語っていません。