木にまつわる地名は日本全国にありますが、京都にもいくつか残っています。
まず、京都御所の南側の丸太町通り。御所を造営する際、この一帯に丸太を山積みにしていたのでこの地名が残ったそうです。
この丸太町通りの1本南には竹屋町通りがあります。ここも御所や神社仏閣の建築に必要な竹を扱う業者がたくさん集まっていたのでしょう。
(木屋町通りに面した高瀬川)
木屋町という地名もあります。ここは、慶長16年(1611年)に角倉了以(すみのくらりょうい)が運河(高瀬川)を開削して生れた町。
京都には神社仏閣が多く、特に当時は方広寺という巨大なお寺や二条城が建築中で、莫大な量の木材が必要でした。その需要を満たすために、日本中から木材を買い集め、大阪の淀川から伏見へ、そして高瀬川へと遡って運びました。そして、このあたりに材木屋が集まって「木屋町」という地名が生れたのです。
水深は浅いですが、流れを堰き止めて水位を上昇させ、少しずつ上流へ運んだそうです。今は写真のように、伏見の酒を積んだ小舟が面影を留めているだけですが、当時は材木やさまざまな物資を積んだ大きな船が往来していたのでしょう。
まず、京都御所の南側の丸太町通り。御所を造営する際、この一帯に丸太を山積みにしていたのでこの地名が残ったそうです。
この丸太町通りの1本南には竹屋町通りがあります。ここも御所や神社仏閣の建築に必要な竹を扱う業者がたくさん集まっていたのでしょう。
(木屋町通りに面した高瀬川)
木屋町という地名もあります。ここは、慶長16年(1611年)に角倉了以(すみのくらりょうい)が運河(高瀬川)を開削して生れた町。
京都には神社仏閣が多く、特に当時は方広寺という巨大なお寺や二条城が建築中で、莫大な量の木材が必要でした。その需要を満たすために、日本中から木材を買い集め、大阪の淀川から伏見へ、そして高瀬川へと遡って運びました。そして、このあたりに材木屋が集まって「木屋町」という地名が生れたのです。
水深は浅いですが、流れを堰き止めて水位を上昇させ、少しずつ上流へ運んだそうです。今は写真のように、伏見の酒を積んだ小舟が面影を留めているだけですが、当時は材木やさまざまな物資を積んだ大きな船が往来していたのでしょう。