樹樹日記

じゅじゅにっき。樹木と野鳥に関する面白い話をご紹介します。

木と戦争

2017年12月28日 | 木と歴史
師走恒例の今年の漢字は「北」。選定理由の一つは北朝鮮の不穏な動きのようですが、今から41年前にも南北が一触即発になったことがあります。その原因が木。
軍事境界線にポプラ並木があって、そのうちの1本の枝が伸びて監視所の視界を遮るので、米軍と韓国軍が剪定を強行しようとしたところ、北朝鮮の兵士が2人の米軍兵士を殺害しました。
怒った米軍は、今度は剪定ではなくポプラ並木の伐採を主張。北朝鮮への事前通告なしに共同警備区域に進入し、約100人の兵士が警備する中、伐採を始めました。上空には戦闘機や爆撃機が飛び、朝鮮半島の沖には空母が展開したそうです。
1本の木がきっかけで、あわや武力衝突という状況が生まれたわけです。結局、金日成主席が謝罪したため全面戦争は避けられたとのこと。


事件の発端になったポプラ(Public Domain)

この話を知って、別のことを思い出しました。アメリカの独立戦争の要因はいろいろあるでしょうが、その一つがやはり木だったそうです。
イギリスは帆船に使う木材、特に帆柱に使う大径木を必要としていましたが、国内ではほとんど伐採し尽くしたため、アメリカにある木を手に入れたかったので独立を阻止しようとした。そういう研究論文を読んだ記憶があります。
あってほしくないことですが、木が戦争の原因になりうるということですね。
さて、今年もあとわずか。この1年ご愛読いただきありがとうございました。来年もよろしくお願いします。みなさま、良いお年をお迎えください。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山陰道の街路樹

2017年02月23日 | 木と歴史
鳥取市の山陰道跡から平安時代の街路樹が発見されました。10世紀後半の盛り土100mの区間に18本の木の根と大量の杭が見つかり、50cmから2mの間隔で並んでいるので街路樹と判断されたようです。
メディアは「柳の木の根」としか報道していませんが、シダレヤナギだと思います。中国原産の木ですが、平安京の朱雀大路にもその街路樹があったことが当時の記録に残っています。
『古今和歌集』には「見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」という歌がありますし、『続日本後記』には「朱雀大路の柳が激しい雷雨で揺れた」と書いてあるそうです。


京都・白川沿いの柳の街路樹

さらに、奈良の平城京跡からはシダレヤナギの種が出土しています。平城京も平安京も中国の長安をモデルに建都されたわけですから、街路樹も中国産のシダレヤナギにしたのでしょう。あの独特の樹形は日本の樹木にありませんし、当時は何でも中国風が尊ばれたので、わざわざ移入して植えたのだと思います。
今回の発見で、都大路だけでなく街道にも柳の街路樹があったことが証明されたわけですが、私が注目したもう一つのポイントは、大量に発見された杭の樹種がクリだったこと。
クリは腐りにくいので、昔から家の土台や鉄道の枕木に使われてきました。今回の杭も、その特徴を生かして街路樹を支えるために使われたのではないかと勝手に推測しています。
街路樹としてのシダレヤナギは、以前は「銀座の柳」と歌われるほど人気が高かったものの、現在は右肩下がり。京都でもほとんど見かけません。風に揺れて枝が広がるのを、昔の人は「風情がある」と思ったのでしょうが、現代人にとってはただうっとおしいだけかもしれませんね(笑)。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海を渡る木

2015年10月08日 | 木と歴史
韓国にある百済の古墳から歴代の王の棺が出土し、その材質を調べたところコウヤマキであることが判明しました。コウヤマキは1属1種の日本特有種で朝鮮半島には自生しません。つまり、当時(4~7世紀)日本から運んだわけです。
その棺の一つが韓国の博物館に展示されていて、長さ2m×幅80cm×深さ80cmほど。原木はさらに大きかったはずです。
わざわざ海を越えて運ぶほどコウヤマキの価値が高かったわけですが、『日本書紀』にもヤマトタケルがコウヤマキを棺に使えと指示する話があり、日本の古墳からもコウヤマキ製の棺がたくさん出土しています。
それにしても、1500年も前から木材貿易が行われていたとは驚きです


コウヤマキの木材サンプル(竹中大工道具館)

ところが、驚くのはまだ早くて、古代エジプトでも木材貿易が行われていたようです。ピラミッドの遺品にはたくさんの木製品がありますが、コクタン、チークなどエジプトには自生しない木が使われているとのこと。インドあたりから輸入したのでしょう。
さらに、ソロモンとフェニキアの間で交わされた木材貿易の契約書が残っているそうです。ソロモン王はエルサレムに建てる宮殿や神殿の用材を確保するため、林業技術に優れたフェニキア人に材木の調達を依頼。代わりに穀物やオリーブ油をフェニキアに供給するという契約です。中東地域の建築材といえば、レバノン杉でしょう。
陸路は大変ですから船で曳いて運んだのでしょうが、木材貿易は紀元前の昔から普通に行われてきたわけです。

さて、当ブログはこれまで月曜日と木曜日の週2回投稿してきましたが、都合により来週から木曜日のみ投稿します。少し間隔があきますが、これまでどおりご愛読ください。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪馬台国九州説を支持します

2015年09月14日 | 木と歴史
以前、「1800年前の植生」と題して『魏志倭人伝』に書かれている日本の樹種をご紹介しました。
『魏志倭人伝』は『三国志』の一部で、全部で12ページ。そのうちの6ページ目に樹木の記載があります。下の赤枠に8種類の樹木がリストアップされています。


『魏志倭人伝』の画像はパブリックドメイン

写真の樹木リストを書き直すと以下のようになります。
①木冉(木へんに冉)、②杼、③豫樟、④ 、④櫪、⑤投、⑥橿、⑦烏号、⑧楓香
これらの漢字がどの樹種を意味するかはツリーウォッチャーにも気になるところですが、考古学者にとっても大きな問題です。樹種によって邪馬台国の位置が推測できるからです。そういう背景も手伝ってか、これらの漢字をどう読むかは学者によって意見が分かれています。
①の木冉(木へんに冉)はタブノキ、③の豫樟はクスノキ、④の櫪はクヌギ、⑥の橿はカシ、⑧の楓香はカエデというあたりは共通しているようですが、以下の3種は意見が分かれています。
②の杼…トチノキ説とコナラ説
⑤の投…スギ説とカヤ説
⑦の烏号…ヤマグワ説とカカツガユ説
私の勝手な推測では、②の杼はコナラ。使節団が訪れたのは平地の集落で、トチノキが生えるような山中には行かなかったでしょう。第一、トチノキは日本固有種ですから、中国人は知らないはず。
⑤の投はカヤでしょう。これも同じく、スギは日本固有種なので中国人は知らなかったはずです。もちろん、実際に見たのはスギだけれども、中国にはない木なのでとりあえずカヤの字で表現したということはあるかもしれませんが、トチノキとコナラは葉も樹形も全く違いますから、言い換えることはないでしょう。


トチノキは複葉、コナラは単葉

⑦の烏号は、カカツガユという樹を植物園でしか見たことがないので何とも言えませんが、これを唱えているのが植物学者で、日本固有種かどうかを踏まえてコナラやカヤと読み解いている人なので、カカツガユが正しいと思います。
さて、タブノキ、クスノキはどちらかと言えば南方系の樹木。カカツガユにいたっては、台湾、中国南部以外では本州(山口県)、四国、九州、沖縄にしか分布しません。
これらの植生からすると、邪馬台国は九州にあったと言わざるを得ません。関西人としては畿内説を支持すべきですが、ツリーウォッチャーとしては九州説に寝返ります(笑)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出世の木

2015年07月20日 | 木と歴史
家の近くの大通りの街路樹はシラカシとクロガネモチですが、京阪電車の宇治駅前にはなぜかシダレエンジュが4本だけ植えてあります。今ちょうど花期を迎えて、白い花を咲かせています。



エンジュの英名はJapanese Pagoda Treeで、学名にも「日本の」という意味の種小名が付いていますが、原産は中国。日本に移入されたのはかなり昔のようで、神功皇后がエンジュの木に取りすがって応神天皇を産んだという伝説が残っています。
古代中国の宮廷には3本のエンジュが植えられていて、皇帝が朝見する際、最も位の高い3人の人物、日本で言えば太政大臣、左大臣、右大臣がその前に座ったそうです。この故事から、中国ではエンジュは「出世の木」とされています。
漢字では「槐」と書きますが、最高の官位を「槐位(かいい)」、大臣の家系を「槐門(かいもん)」と呼ぶのもエンジュに由来するわけです。
どこかの国の内閣には槐門が多いですね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

将軍の命を左右した木

2014年11月27日 | 木と歴史
宇治でもイチョウが黄金色に染まっています。下の画像は宇治名木百選の一つ、JR新田駅のイチョウ。説明パネルには「樹高19m、幹周2.6m」とあります。こんなイチョウを見ると源実朝を連想します。
鎌倉幕府の三代将軍・源実朝は、建保7(1219)年に鶴岡八幡宮に参拝した際、イチョウの木陰に隠れていた僧侶・公暁(くぎょう)に襲われて命を落とします。このときまだ27歳。しかも、公暁は実朝の甥です。



一方、実朝の父・源頼朝は、木に隠れて命拾いしています。
『源平盛衰記』によると、治承4(1180)年、頼朝は石橋山の戦いで平氏軍に敗れ、敵に追い込まれて万事休す。たまたま大きな倒木があったので、その洞に隠れて八幡大菩薩に祈念します。
追っ手がその洞に弓を突っ込んでかき回します。弓が頼朝の鎧に当たって音がした瞬間、1羽の山鳩が洞から飛び立ちました。「中に人がいれば鳩がいるはずはない」と、追っ手は引き返しました。
頼朝は木に隠れたおかげで命を長らえたわけです。正確には木と鳥に命を助けられ、その後鎌倉幕府を開いて初代将軍に就きます。
父は木に隠れて命拾いし、子は木に隠れた刺客に命を奪われたわけです。
この頃の史実は物語としては面白いですが、兄(頼朝)が弟(義経)を殺そうとしたり、甥が叔父を殺したり、恐ろしい世界です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚飾の花

2014年06月30日 | 木と歴史
家の近くのアジサイ寺に連日多くの観光客が押し寄せていますが、わざわざ人ごみに揉まれたくないのと、入山料(500円)がもったいないので行きません。散歩コースにある小さな花の寺で十分楽しめます。



ご存知のように、アジサイは野生種ガクアジサイを改良して装飾花だけが咲くようにした園芸品種。本当の花ではなく、言わば虚飾の花なので、株分けか挿し木でしか増やせません。
ガクアジサイに限らず、野生のアジサイ類は本当の花の周囲に装飾花を咲かせます。先日訪れた栃の森ではツルアジサイが満開でしたが、白い装飾花の内側にあるのが本来の花。



日本人がいつ野生のガクアジサイから園芸品種のアジサイを作り出したのかは不明ですが、興味深い和歌が『万葉集』に残っています。
あぢさゐの 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思はむ
橘諸兄(たちばなのもろえ)が宴に招かれ、その主を称えて詠んだもので、「アジサイの花が八重に咲くように、いつまでも栄えてください。あなたを見仰ぎつつお慕いします」という意味だそうです。
西暦755年に詠まれたらしいですが、そのころすでに八重咲きのアジサイがあったわけです。ちょっと信じがたいですが、『万葉集』にはスギの植林の歌もあるので、私たちの想像以上に園芸技術が発達していたのかも知れません。
栃の森にはコアジサイも咲いていました。アジサイ類の中で唯一装飾花がない、つまり本当の花だけを咲かせる樹です。



花が虚飾ではない。色は幻想的なブルー。しかも、匂いが爽やか。私的には最もポイントの高いアジサイです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5000年前の殺人事件

2013年04月22日 | 木と歴史
先日、「NHKスペシャル」で興味深い番組を放映していました。アルプスで発見された5000年前の人間の冷凍ミイラ(通称「アイスマン」)を解剖して、いろんなことを解明しようという内容。
アイスマンの左肩には矢尻が刺さっていて、生贄として殺されたという説と何者かに殺されたという説があったそうです。殺人説の一つの根拠が、消化器官に残っていた樹木の花粉。
直腸にはモミ(針葉樹)の花粉、大腸にはアサダ(広葉樹)の花粉、小腸にはトウヒ(針葉樹)の花粉が残っていたそうです。花粉は食事の際に体内に入ったと考えられています。


体内に残っていた花粉の一つはこのヨーロッパトウヒ(=ドイツトウヒ)

このことから、食べ物を消化する約50時間の間に、標高の高い針葉樹林帯から一旦、標高の低い落葉広葉樹林帯へ降り、その後再び針葉樹林帯まで登ったと推測できます。
そして、短い時間にそれだけの標高を登ったり降りたりしたのは、何者かに追われていたからではないか、というわけです。
結局、逃げ切れずに背後から追っ手に矢を射られて死んだ、というのが解剖や調査を担当したヨーロッパの学者たちの結論です。
殺されたアイスマンには申し訳ないですが、面白いですね~。現代の科学は5000年前の殺人事件さえ解明してしまうわけです。ポアロや金田一耕助には絶対無理でしょう。
なお、当ブログではこれまでにも、アイスマンがイチイの弓を所持していたことや、シラカバの樹皮の器を携帯していたことをご紹介しました。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本邦初記録の木

2012年10月08日 | 木と歴史
今年は『古事記』編纂1300年とかで、奈良県や島根県、宮崎県などゆかりのある地域で各種のイベントが催されています。
この日本最古の歴史書には樹木の記載がありますが、「最初に登場する木は何だろう?」と思って調べたら、クスノキでした。
イザナギとイザナミがオノゴロ島で楠船神、つまりクスノキの船を生み出したという記述があります。本邦初記録の樹木はクスノキでした。ただし、日本の樹木に関しては中国の『魏志倭人伝』(約1700年前の編纂)に記録があるので、「わが国の書物では」という条件付です。
『古事記』の8年後に完成した『日本書紀』にも、スサノオが「クスノキを船に使え」と指示する記述があるので、古代の船材はクスノキだったのでしょう。


クスノキの幹

『古事記』にはクスノキのほかにもいくつかの木が登場しますが、面白いのは弓。
天孫降臨の際に「はじ弓」を持っていたという記述があります。「はじ」は「はぜ」、つまりハゼノキやヤマハゼなどウルシ科の木でしょう。弓の材料には、マユミ、アズサ(ミズメ)などいろいろな木が使われていたようですが、ハゼも使われていたわけです。
私が面白いと思ったのは、現在の和弓にもハゼノキが使われているから。ハゼノキの細い板を2枚の竹でサンドイッチして弓を作るそうです。


ヤマハゼの幹

『日本書記』には、日本の樹木の発祥について興味深いことが書いてあります。
スサノオの子であるイタケルがたくさんの樹木の種を持って天から降りた後、最初は韓地(からくに=朝鮮半島)で種を撒くつもりだったが、「この地はふさわしくない」と思って大八洲(おおやしま=日本)に持って行き、筑紫から撒き始めて国土を青山にした…。
このイタケルが木の神様として鎮座したのが「木の国」(=紀伊国)。4年前、この神様を祭る神社まで「木祭り」を見にいって、記事にしたことがあります。
そう言えば今日は「木の日」でした。十と八を合わせると「木」になるので。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月の花

2012年05月14日 | 木と歴史
イギリスの清教徒たちが信教の自由を求め、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸へ渡った…という話は高校の「世界史」で習いました。
その「メイフラワー」がサンザシの花であることを最近になって知りました。メイフラワー号の船尾にはサンザシの花が描かれていたそうです。
サンザシの名は知っていますが、樹も花も見た記憶がありません。「どんな花だろう?」と気になって、久しぶりに大阪市立大学附属植物園へ足を伸ばしました。


サンザシの花

このサンザシは中国原産で、日本には薬用として1734年に移入されたそうです。
メイフラワー号に描かれていたのはセイヨウサンザシ。この植物園には東洋と西洋のサンザシがすぐ近くに植えてありましたが、西洋のは開花が少し遅いようです。


開花前のセイヨウサンザシ

「5月の花」と呼ばれるくらいですから、ヨーロッパでは初夏を代表する花なのでしょう。日本でサツキを「五月」と書くのと似ていますね。
セイヨウサンザシには棘があるためか、枝を持っていると船は嵐を避けることができ、陸では雷に遭遇しないという言い伝えがあるそうです。だから船の名前にしたのかも知れません。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする