しばらく前、戦前の日本野鳥の会の名簿をパラパラ眺めていると、川端康成の名前があってびっくりしました。日本人初のノーベル文学賞受賞者はバードウォッチャーだったようです。
その後、野鳥の会の機関誌『野鳥』の戦前版を読んでいた際、1937(昭和12)年8月号に「山中湖畔へ」という川端の一文を発見。6月に開催された1泊2日のバスツアーに川端が参加し、そのレポートを執筆しているのです。当時38歳。すでに『伊豆の踊子』や『雪国』を発表し、売れっ子作家だったはずです。
ノーベル賞を受賞した頃の川端康成(Public Domain)
その寄稿文の冒頭で、「日本の昔の行脚や風流が、今の世では、動植物の生態を見るということへ、移って来ているにちがいない」と書いています。昔のような単なる物見遊山の旅行が、バードウォッチングなど自然観察の旅行に変わりつつあるというのです。そして、次のように書いています。
鳴き囀るということ、空を飛ぶということ、卵と雛ということ、鳥それぞれの形や色ということ、それが遠近に隠現して、微妙な変化も音楽に似て、ほかの見学のように、心が淀んだり、泥(なず)んだりしない。人間の耳目に感じる限りでは、野鳥ほど自然を楽しげに親しんでいるものはないが、そのゆえにか、人は生きものの命のいとしさを何よりも野鳥に見るのである。野鳥趣味の幸いな所以(ゆえん)である。
現地でアカハラやクロツグミ、ホトトギスなどの声を聞き、さらにオオジシギのディスプレイも観察。「ゴルフ場のオオジシギは、そのみごとな飛翔を、存分に味わうことが出来た。雷シギとも呼ばれる所以の羽音も聞けた」と書いています。
当ブログでは8年前に川端康成を取り上げました。その中で、野外での野鳥観察の喜びを「分かりませんねぇ」と言っていたことを紹介しました。その数年後に日本野鳥の会に入会し、1泊2日の探鳥旅行に参加して、「野鳥ほど自然を楽しげに親しんでいるものはない」とか「野鳥趣味の幸いな所以である」と書いているのです。
巨匠にどのような心境の変化があったのか、聞いてみたいところです。
その後、野鳥の会の機関誌『野鳥』の戦前版を読んでいた際、1937(昭和12)年8月号に「山中湖畔へ」という川端の一文を発見。6月に開催された1泊2日のバスツアーに川端が参加し、そのレポートを執筆しているのです。当時38歳。すでに『伊豆の踊子』や『雪国』を発表し、売れっ子作家だったはずです。
ノーベル賞を受賞した頃の川端康成(Public Domain)
その寄稿文の冒頭で、「日本の昔の行脚や風流が、今の世では、動植物の生態を見るということへ、移って来ているにちがいない」と書いています。昔のような単なる物見遊山の旅行が、バードウォッチングなど自然観察の旅行に変わりつつあるというのです。そして、次のように書いています。
鳴き囀るということ、空を飛ぶということ、卵と雛ということ、鳥それぞれの形や色ということ、それが遠近に隠現して、微妙な変化も音楽に似て、ほかの見学のように、心が淀んだり、泥(なず)んだりしない。人間の耳目に感じる限りでは、野鳥ほど自然を楽しげに親しんでいるものはないが、そのゆえにか、人は生きものの命のいとしさを何よりも野鳥に見るのである。野鳥趣味の幸いな所以(ゆえん)である。
現地でアカハラやクロツグミ、ホトトギスなどの声を聞き、さらにオオジシギのディスプレイも観察。「ゴルフ場のオオジシギは、そのみごとな飛翔を、存分に味わうことが出来た。雷シギとも呼ばれる所以の羽音も聞けた」と書いています。
当ブログでは8年前に川端康成を取り上げました。その中で、野外での野鳥観察の喜びを「分かりませんねぇ」と言っていたことを紹介しました。その数年後に日本野鳥の会に入会し、1泊2日の探鳥旅行に参加して、「野鳥ほど自然を楽しげに親しんでいるものはない」とか「野鳥趣味の幸いな所以である」と書いているのです。
巨匠にどのような心境の変化があったのか、聞いてみたいところです。