富士宮市精進川にある富士川水系の大倉川農地防災ダムに来ました。大倉川はやがて芝川に合流し、そして富士川へ流入します。
路傍の岩に見えますが、よく見るとここがかつての村境だったことを示しています。つまり北側が半野村(現在の白糸地区半野)で、南側が精進川村(現在の上野地区精進川)というわけですね。
貯水側から見たダム。
下流側から見ると。
ダム上です。車両が十分通行できる幅があります。
ダム上の中央部から見た貯水側。この時はあまり水がありませんでした。
下流側の景色です。
対岸へ来ました。ダムの位置がわかる説明図です。
対岸から振り返ると富士山がバッチリ!
対岸側には増水時に流れる排水路があります。ここから溢れて、
あちらへ流れていきます。
排水路にかかる橋には1972年3月竣功とあります。一番上の写真の説明によれば全工事は1980年に完了と記されているので1972年に完成したのはこの橋なのかもしれません。
管理所らしきものは対岸にあります。でもそれを示すプレートは見当たらないので…
郵便受けでご勘弁ください。
どこの農地防災ダムもそうですが、基本的にほのぼのしていますね。霊峰富士も拝むことができて最高の場所です!
路傍の岩に見えますが、よく見るとここがかつての村境だったことを示しています。つまり北側が半野村(現在の白糸地区半野)で、南側が精進川村(現在の上野地区精進川)というわけですね。
貯水側から見たダム。
下流側から見ると。
ダム上です。車両が十分通行できる幅があります。
ダム上の中央部から見た貯水側。この時はあまり水がありませんでした。
下流側の景色です。
対岸へ来ました。ダムの位置がわかる説明図です。
対岸から振り返ると富士山がバッチリ!
対岸側には増水時に流れる排水路があります。ここから溢れて、
あちらへ流れていきます。
排水路にかかる橋には1972年3月竣功とあります。一番上の写真の説明によれば全工事は1980年に完了と記されているので1972年に完成したのはこの橋なのかもしれません。
管理所らしきものは対岸にあります。でもそれを示すプレートは見当たらないので…
郵便受けでご勘弁ください。
どこの農地防災ダムもそうですが、基本的にほのぼのしていますね。霊峰富士も拝むことができて最高の場所です!
埼玉県飯能市にある荒川水系の有間(ありま)ダム。実は2005年と翌2006年に訪れていたのですが、その時はどちらもドライヴついでに立ち寄っただけ。なので、ダムをちゃんと見たわけではありません。そこで上京ついでに行ってみました。
到着です。いやいや、懐かしい!
下流側から見たダムです。
上流側からダムを見ると。
では、ダム上を進んでみることにしましょう!
中央付近から見た下流の景色です。
以前、石を剥がす人がいたんでしょうか。来訪記念に持ち帰るとか? いえいえダメです。
この貯水池は名栗湖といいます。
対岸へ来ました。こちら側の山腹には有間ダムの看板が掲げられています。
対岸から振り返って見ると。
対岸、名栗湖側から見たダム。
一方、対岸の下流側から見たダムです。
再び元の場所に戻り、上流側に向かうとダム周辺の案内図がありました。1986年3月に完成した多目的ダムなんですね。
実はこの案内板、音声でも案内してくれるんです。小っ恥ずかしいので試しませんでしたが。
素朴な疑問に対しての答えがちゃんと書かれていますね。なるほどねぇ。
さらに上流側へ進んだところに管理所があります…。
…が、何と大変なことが起きていました。えええ、どうしたんでしょうか。
ご覧の通り、管理所脇の山肌が崩落したのです。これは昨年の台風19号によるもので、この奥の道路も同様に土砂崩れがあり、まだ開通の見込みが立っていないとのこと。
山間部にあるどのダムもそうですが、崩落の危険性は常に孕んでいます。2006年に訪れた際にも落石があり通行止でした(参考)。山肌が崩落することは想定の範囲内なのでしょうが、それにしてもダム事業はまさに危険と隣り合わせなんだなと改めて思いますね。
到着です。いやいや、懐かしい!
下流側から見たダムです。
上流側からダムを見ると。
では、ダム上を進んでみることにしましょう!
中央付近から見た下流の景色です。
以前、石を剥がす人がいたんでしょうか。来訪記念に持ち帰るとか? いえいえダメです。
この貯水池は名栗湖といいます。
対岸へ来ました。こちら側の山腹には有間ダムの看板が掲げられています。
対岸から振り返って見ると。
対岸、名栗湖側から見たダム。
一方、対岸の下流側から見たダムです。
再び元の場所に戻り、上流側に向かうとダム周辺の案内図がありました。1986年3月に完成した多目的ダムなんですね。
実はこの案内板、音声でも案内してくれるんです。小っ恥ずかしいので試しませんでしたが。
素朴な疑問に対しての答えがちゃんと書かれていますね。なるほどねぇ。
さらに上流側へ進んだところに管理所があります…。
…が、何と大変なことが起きていました。えええ、どうしたんでしょうか。
ご覧の通り、管理所脇の山肌が崩落したのです。これは昨年の台風19号によるもので、この奥の道路も同様に土砂崩れがあり、まだ開通の見込みが立っていないとのこと。
山間部にあるどのダムもそうですが、崩落の危険性は常に孕んでいます。2006年に訪れた際にも落石があり通行止でした(参考)。山肌が崩落することは想定の範囲内なのでしょうが、それにしてもダム事業はまさに危険と隣り合わせなんだなと改めて思いますね。
前回の金山砂防ダムから県道29号を下ってくると安倍川水系の大河内砂防ダム(静岡市葵区有東木)が見えてきます。これ以降、安倍川にダムはありません(たぶん)。
上流側から見たダム。よく見るとダムのすぐ下にも堰堤らしきものがあるので二段式になっているようです。
これがダム上です。
上の写真のベージュ色の建物は水位観測所。
観測所の設置が1953年とあるので、ダムも同時期に建造されたと思われます。
下流側から見たダム。木が邪魔でよく見えませんね。
さらに下流から写してみましたが、やっぱり木が邪魔だなあ。
明確な高さは記されていませんが、目測だと15m未満なのでこれは堰堤と呼ぶほうが適切かもしれません。
安倍川に設置された三つのダム(堰堤)を見て気づくのは下流側から順に建設されていったこと。つまり、今回の大河内砂防ダム(1953)がまず作られ、続いて金山砂防ダム(1956)、そしてさらなる水害を防ぐために上流の湯の島砂防ダム(1968)が作られたことがわかります。川に沿って見ていくとダム建設の歴史が見えてきて興味深いですよ。
上流側から見たダム。よく見るとダムのすぐ下にも堰堤らしきものがあるので二段式になっているようです。
これがダム上です。
上の写真のベージュ色の建物は水位観測所。
観測所の設置が1953年とあるので、ダムも同時期に建造されたと思われます。
下流側から見たダム。木が邪魔でよく見えませんね。
さらに下流から写してみましたが、やっぱり木が邪魔だなあ。
明確な高さは記されていませんが、目測だと15m未満なのでこれは堰堤と呼ぶほうが適切かもしれません。
安倍川に設置された三つのダム(堰堤)を見て気づくのは下流側から順に建設されていったこと。つまり、今回の大河内砂防ダム(1953)がまず作られ、続いて金山砂防ダム(1956)、そしてさらなる水害を防ぐために上流の湯の島砂防ダム(1968)が作られたことがわかります。川に沿って見ていくとダム建設の歴史が見えてきて興味深いですよ。
今回から安倍川水系のダムを訪ねていきます。まず安倍川の起点までクルマで行ってみましょう。
そこにあるのが湯の島砂防ダム(静岡市葵区梅ケ島)です。
1968年3月に完成したものですが、高さは10mなのでダムの定義からすると正確には堰堤と呼ぶべきかもしれません。
ダム上の橋から上流を見るとこんな感じ。
一方、下流側の景色はこんな感じです。
橋を渡った対岸の上流側から見たダム。
再度、下から見たダムです。二段式の形状をしています。
安倍川の下流では川幅がやたらと広いのですが、さすがに上流部はまだ一般的な河川と変わらないですね。
今日は東日本大震災からちょうど9年目の日です。あの日の衝撃は鮮明に覚えています。未だ仮設住宅にお住いの方は3000人ほどいるというニュースを見ました。現在、世の中は新型コロナ・ウイルス問題で騒いでいます。感染拡大を防ぐためという名目で被災者の慰霊式典は中止になりました。ある意味でその判断は正しいのかもしれません。しかし、表立った式典はしなくとも、今日一日は心の中で無念にも亡くなられた方たちのことを想い、御冥福をお祈りましょう!
そこにあるのが湯の島砂防ダム(静岡市葵区梅ケ島)です。
1968年3月に完成したものですが、高さは10mなのでダムの定義からすると正確には堰堤と呼ぶべきかもしれません。
ダム上の橋から上流を見るとこんな感じ。
一方、下流側の景色はこんな感じです。
橋を渡った対岸の上流側から見たダム。
再度、下から見たダムです。二段式の形状をしています。
安倍川の下流では川幅がやたらと広いのですが、さすがに上流部はまだ一般的な河川と変わらないですね。
今日は東日本大震災からちょうど9年目の日です。あの日の衝撃は鮮明に覚えています。未だ仮設住宅にお住いの方は3000人ほどいるというニュースを見ました。現在、世の中は新型コロナ・ウイルス問題で騒いでいます。感染拡大を防ぐためという名目で被災者の慰霊式典は中止になりました。ある意味でその判断は正しいのかもしれません。しかし、表立った式典はしなくとも、今日一日は心の中で無念にも亡くなられた方たちのことを想い、御冥福をお祈りましょう!
奥多摩湖のほとりには「奥多摩 水と緑のふれあい館」があります。
建物の前には可愛らしいモニュメント(?)
「自転車ゆりーと像」だそうです。調べてみると2013年に開催された第68回国体の自転車競技の「ロード・レース」でこの場所がゴールだったのを記念して設置されたらしい。「ゆりーと」とは東京都の鳥「ゆりかもめ」と競技者(アスリート)の合成語のようです。へぇ〜、ゆりかもめって東京都の都鳥だったんですねえ。興味がないので全く知りませんでした(参考)。
で、敷地の片隅にはなぜか道祖神が…。
う〜ん、オチ、弱いなぁ、自分。
建物の前には可愛らしいモニュメント(?)
「自転車ゆりーと像」だそうです。調べてみると2013年に開催された第68回国体の自転車競技の「ロード・レース」でこの場所がゴールだったのを記念して設置されたらしい。「ゆりーと」とは東京都の鳥「ゆりかもめ」と競技者(アスリート)の合成語のようです。へぇ〜、ゆりかもめって東京都の都鳥だったんですねえ。興味がないので全く知りませんでした(参考)。
で、敷地の片隅にはなぜか道祖神が…。
う〜ん、オチ、弱いなぁ、自分。
いや〜、勘違いとは恐ろしいものです。何がって? まぁまぁ、そう慌てなさんな。これから説明していきますから。
東京都の奥多摩湖は約1年ぶりの再訪(参考)。その時は深夜だったのでわからなかったのですが、奥多摩湖はダム湖百選のひとつなんですね。
さらに気づかなかったのは「湖底の故郷」なる石碑があったことです。ダムを建設すれば必ず誰かがどこかへ移動せざるを得ません。小河内ダムについては600戸(3000人)が下流の東京都民のために故郷を離れたとのこと。こうした事実を訪問する私たちは忘れてはいけませんね。
石碑の近くには小河内ダムの概要が書かれています。これを読むと1957年11月にダムは完成し、945世帯が移動、87名が建設中に犠牲となったとあります。あれれ、上の石碑よりも345世帯増えてますやん。どういうことなんでしょうか。
で、最初に書いた勘違いというのは下の写真のがてっきりダムだと思ったいたのです。ところがこれは余水吐の水門で、本丸となるダムはその奥だったのです。深夜だと奥にあるダムが見えないのでこんな勘違いが起きたのだと思います。すみません。
余水吐水門を通過しても道があり、
その前にダムの管理事務所があります。深夜ヴァージョンの時には入口の守衛所が管理事務所だとこれまた勘違いしていたので、これを見た時、密かに大汗。
で、本物の小河内ダムはこれです。確かにデカイ…。
では、ダム上を進んでみることにします。
ダム中央部から見た真下。ちょっとズームしていますが、それでもクラクラする高さです。
その遠景はこんな感じ。
一方、奥多摩湖の景色です。大きいね。
ダム中央部には展望塔。新型コロナ・ウイルスのため休館でした。
対岸へ来ました。振り返ると…。
対岸には慰霊碑。上の説明の通り慰霊碑の裏には87人の名が刻まれています。
慰霊碑から見えるダム。亡くなった彼らの目にダムはこんな風に見えているのでしょう。いや、目はないんですけどね。
対岸にはダムの位置の案内図や、
ダム建設に使われた品々が展示されています。
対岸下流側から見たダム。
つくづくダムは昼間に訪れるもんだなと再認識。
東京都の奥多摩湖は約1年ぶりの再訪(参考)。その時は深夜だったのでわからなかったのですが、奥多摩湖はダム湖百選のひとつなんですね。
さらに気づかなかったのは「湖底の故郷」なる石碑があったことです。ダムを建設すれば必ず誰かがどこかへ移動せざるを得ません。小河内ダムについては600戸(3000人)が下流の東京都民のために故郷を離れたとのこと。こうした事実を訪問する私たちは忘れてはいけませんね。
石碑の近くには小河内ダムの概要が書かれています。これを読むと1957年11月にダムは完成し、945世帯が移動、87名が建設中に犠牲となったとあります。あれれ、上の石碑よりも345世帯増えてますやん。どういうことなんでしょうか。
で、最初に書いた勘違いというのは下の写真のがてっきりダムだと思ったいたのです。ところがこれは余水吐の水門で、本丸となるダムはその奥だったのです。深夜だと奥にあるダムが見えないのでこんな勘違いが起きたのだと思います。すみません。
余水吐水門を通過しても道があり、
その前にダムの管理事務所があります。深夜ヴァージョンの時には入口の守衛所が管理事務所だとこれまた勘違いしていたので、これを見た時、密かに大汗。
で、本物の小河内ダムはこれです。確かにデカイ…。
では、ダム上を進んでみることにします。
ダム中央部から見た真下。ちょっとズームしていますが、それでもクラクラする高さです。
その遠景はこんな感じ。
一方、奥多摩湖の景色です。大きいね。
ダム中央部には展望塔。新型コロナ・ウイルスのため休館でした。
対岸へ来ました。振り返ると…。
対岸には慰霊碑。上の説明の通り慰霊碑の裏には87人の名が刻まれています。
慰霊碑から見えるダム。亡くなった彼らの目にダムはこんな風に見えているのでしょう。いや、目はないんですけどね。
対岸にはダムの位置の案内図や、
ダム建設に使われた品々が展示されています。
対岸下流側から見たダム。
つくづくダムは昼間に訪れるもんだなと再認識。
富士川水系の大城川砂防ダム(南巨摩郡身延町大城)は、国道52号から身延線身延駅近くの県道808号を登って行ったところにあります。
ご尊顔。
ダム横から見た様子。
1998年3月完成。名称は「大城川荒廃砂防ダム」とあります。
ところが、その真下にあるプレートでは「大城川大規模砂防ダム」になってますね。
ダム上はご覧のように進入することができません。この、太陽みたいな柵は砂防堰堤などでよく見かけるのですが、強烈な印象を残しますね。全方向に突き出た槍状の棒からは「絶対に進入させねーぞ!」という意気込みが感じられます。
上流の景色。
上流側から見たダム。
案内板です。ここでの名称は「大城川砂防ダム」。う〜む、正解はどれなん?
2014年8月にはダムのすぐ下に小規模発電をするための大城川発電所が作られたようです。
Q. 次のうち正しいのはどれ?
「大城川荒廃砂防ダム」
「大城川大規模砂防ダム」
「大城川砂防ダム」
A. 越後製菓(なんでやねん!)
わかる人にはわかるジョーク…かな?
ご尊顔。
ダム横から見た様子。
1998年3月完成。名称は「大城川荒廃砂防ダム」とあります。
ところが、その真下にあるプレートでは「大城川大規模砂防ダム」になってますね。
ダム上はご覧のように進入することができません。この、太陽みたいな柵は砂防堰堤などでよく見かけるのですが、強烈な印象を残しますね。全方向に突き出た槍状の棒からは「絶対に進入させねーぞ!」という意気込みが感じられます。
上流の景色。
上流側から見たダム。
案内板です。ここでの名称は「大城川砂防ダム」。う〜む、正解はどれなん?
2014年8月にはダムのすぐ下に小規模発電をするための大城川発電所が作られたようです。
Q. 次のうち正しいのはどれ?
「大城川荒廃砂防ダム」
「大城川大規模砂防ダム」
「大城川砂防ダム」
A. 越後製菓(なんでやねん!)
わかる人にはわかるジョーク…かな?
山梨県の県道37号沿いには南アルプス邑(むら)ふれあい広場があります(南巨摩郡早川町保)。
ここには多種多様なモノが展示されています。順に見ていきましょう。
早川第一発電所で活躍した水車ランナ。
早川第三発電所で使われていた水圧鉄管。
甲府市出身の彫刻家、井上公雄(いのうえきみお:1943- )作「torso 2006」
早川町町制35周年および品川区とのふるさと交流を記念して、埼玉県出身の彫刻家、富田眞州(とみたまさくに:1951- )作「美しき出会い」
Y.Fukasawa 作「石彫 風笛」1992.3 作者のY.Fukasawaとは富士川町出身で多摩美術大学名誉教授だった版画家の深沢幸雄(ふかざわゆきお:1924-2017)? だとしたらY.Fukazawaと表記すると思うのですが、どうなんでしょうね。
早川町町制50周年記念に作られた「無限の和」(富田眞州 作)
「虹と親子」(作者未確認)
背後から。
早川町町制45周年記念に作られた「飛躍・連帯・協調」(井上公雄 作)
前衛的な作品がさりげなく展示されているのは驚きでした。
(お知らせ)
白丸調整池ダムをアップデートしました。よろしければコチラをご覧ください。
ここには多種多様なモノが展示されています。順に見ていきましょう。
早川第一発電所で活躍した水車ランナ。
早川第三発電所で使われていた水圧鉄管。
甲府市出身の彫刻家、井上公雄(いのうえきみお:1943- )作「torso 2006」
早川町町制35周年および品川区とのふるさと交流を記念して、埼玉県出身の彫刻家、富田眞州(とみたまさくに:1951- )作「美しき出会い」
Y.Fukasawa 作「石彫 風笛」1992.3 作者のY.Fukasawaとは富士川町出身で多摩美術大学名誉教授だった版画家の深沢幸雄(ふかざわゆきお:1924-2017)? だとしたらY.Fukazawaと表記すると思うのですが、どうなんでしょうね。
早川町町制50周年記念に作られた「無限の和」(富田眞州 作)
「虹と親子」(作者未確認)
背後から。
早川町町制45周年記念に作られた「飛躍・連帯・協調」(井上公雄 作)
前衛的な作品がさりげなく展示されているのは驚きでした。
(お知らせ)
白丸調整池ダムをアップデートしました。よろしければコチラをご覧ください。
富士川水系の西山ダム(南巨摩郡早川町奈良田)は、国道52号から下部温泉駅付近の県道37号を右折し、西山温泉を過ぎたところにあります。
到着しました。上流側から見たダム。
ダム横です。訪れた日はダム上で工事しており、ダム上を歩くことはできませんでした。
建設当時は西山堰堤と呼ばれていたのですね。
竣功は1957年2月。
貯水側の景色です。
下流側から見たダム。
もうちょっと下流から撮ると。う〜ん、こっちのほうが格好いいかな。
「黒河内砂防ダム」??? 同名のダムは以前訪れた伊那市の黒川にあるんですが、これと関係あるんでしょうか(参考)。それにしてもなぜここに?
水利使用標識です。
下流側の景色です。
ダムから少し高い場所に建物があります。管理事務所?
取水口監視所でした。
上流側にダムの案内図がありました。これによれば、この早川を堰き止めてできた湖は「奈良田湖」というんですね。調べてみると、奈良田とはダム建設で水没した集落の名称だそうです。
案内板の隣には石碑があります。
詩人の田中冬二(たなかふゆじ:1894-1980)は福島県出身で、第三銀行に勤務しながら詩作に励んでいました。1936年に初めてこの地を訪ね、ここで焼畑をする家族を描いた詩「山郷」を書きます。その後二回、合計三度この地を訪れ、ここの自然を愛でたようです。
到着しました。上流側から見たダム。
ダム横です。訪れた日はダム上で工事しており、ダム上を歩くことはできませんでした。
建設当時は西山堰堤と呼ばれていたのですね。
竣功は1957年2月。
貯水側の景色です。
下流側から見たダム。
もうちょっと下流から撮ると。う〜ん、こっちのほうが格好いいかな。
「黒河内砂防ダム」??? 同名のダムは以前訪れた伊那市の黒川にあるんですが、これと関係あるんでしょうか(参考)。それにしてもなぜここに?
水利使用標識です。
下流側の景色です。
ダムから少し高い場所に建物があります。管理事務所?
取水口監視所でした。
上流側にダムの案内図がありました。これによれば、この早川を堰き止めてできた湖は「奈良田湖」というんですね。調べてみると、奈良田とはダム建設で水没した集落の名称だそうです。
案内板の隣には石碑があります。
詩人の田中冬二(たなかふゆじ:1894-1980)は福島県出身で、第三銀行に勤務しながら詩作に励んでいました。1936年に初めてこの地を訪ね、ここで焼畑をする家族を描いた詩「山郷」を書きます。その後二回、合計三度この地を訪れ、ここの自然を愛でたようです。