ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

脳みそ、沸騰中!

2006-06-09 03:04:02 | 音楽あれこれ
こんなところで愚痴を書いても仕方がないが、CD紹介の原稿なんてホントに割に合わない仕事だ。しかもまずは音を聴かなければならないからね。心底疲れる。

たかが8枚の原稿なのに8枚のCDを聴かなければならない。とりあえず半分の4枚を聴き終わったので、ただいま休憩中。気分転換にブログでもと…。

もちろん原稿のほうはまだ書いていない。まずは音を聴かなければ話にならないから。音さえ聴いてしまえばこっちのもの。あとは脳みそが何とかしてくれるからね。

先日ここで情報量のことを書いたが、今回の仕事は映像を見るのではないにせよ、音というのはやはり相当な情報量だと感じる。じっと耳を澄ませて集中するだけでもかなり神経を使うわけだし。まだ半分しか聴いてないが、それでも聴覚は既にマヒ状態。

予定では数日前から少しずつ聴くはずだった。ところが例のごとく押せ押せの状態で遂に本日が締め切りの日。ま、そんなことはいつものことなんだけど。

考えるだけでも脳みそは疲れるのに音も聴かなければならないので、暑くもないのにヘンな汗が出てくる。感覚的な表現だが、脳みそも何だかコリコリになってるし。

まあ、仕事があるだけでもありがたいと思うことにしよう。

さて、試聴後半戦に突入だ。そして怒濤のように原稿を書いてしまおう!
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悩むことは飛躍の始まり

2006-06-08 05:13:18 | 脳みその日常
「悩んで、悩んで、悩み抜け!」とは最近放映されている保険会社のCMのセリフ。ここで闘う男、星野仙一氏は画面一杯に力説している。あの星野氏だからこそ説得力があり、そうだよなと思わされる。

それはともかくとして、人は悩むことが大切だとつくづく思う。振り返ってみれば、悩めば悩むほど良い結果となるものだ。大して悩まずに通過してきたことは、得てしてロクなものにはならない。あたかも眉間が痛みを覚えるぐらい苦悩したことというのは、その時はツラいけれど、後になって良い思い出にもなるのだ。

月並みな言い方だが、人は悩むことを繰り返して成長してゆく。幸か不幸か、それまであまり悩まないで過ごしてきた人は、やはりそれなりの人生になる。深く悩むことがないので、そういう人の顔つきは大概愛くるしいことが多い。普段からニコニコしているのだから顔面の筋肉もそれに応じて発達するのかもしれない。だからそういう人はよほど能天気な性格でなければ実際には非常に「打たれ弱い」ものである。

いや、ニコニコしていても芯の強い人もいるという意見もあるだろう。そうかもしれない。しかし本当に芯の強い人ならば、愛くるしい人相であっても、目には独特の力が備わっているものである。その意味で「目は口ほどにモノを言う」のだ。

いずれにしても悩むということは本当に苦しいものである。現在悩んでいる最中の人はその気持ちがよくわかるだろう。悩みの渦中にいるからこそ苦しいのであり、それを客観的に眺める余裕などあるわけがない。なぜこれほど苦しいのか、何とかしてくれ…と。何かにすがりたい気持ちになるのも無理はない。

でも、悩むということは現在の自分が置かれている状況に満たされていないことをも意味するのだ。何とかしたい、何とかしなければと思うからこそ悩むのである。何らかの解決法を見いだしたいと願うことは次なる自分を見つけようという意欲の表れと考えることもできる。だからそれがマイナスに働けば自らを死に追いやるのだろうし、プラスに向かえば達成感や充実感となる。どちらをセレクトするかは本人次第だ。

死んだことがないのでマイナス面についてはコメントできないが、少なくともワシの経験からすると悩んだあとは結果的に大きな自分になっているものだ。悩んだという経験が別の意味での自信になるのかもしれない。だからどんな些細なことでもよい。どんどん悩むことをオススメしたい。
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文字の情報量

2006-06-07 08:11:06 | 脳みその日常
文字による表現には限界がある。表わそうとするものが複雑であればあるほど、また抽象的であればあるほど、どれだけ多くの文字を使っても表現しきれるものではない。説明文を読むより、対象を目で見たほうが一発で分かることもある。画像データがテキスト・データよりも遥かに多くのメモリを食うのは、それだけ画像に多くの情報量が詰め込まれているからである。百聞は一見に如かずというが、それはまさしく情報量のことを指しているといっても過言ではない。

別のパターンでも文字表現の限界を感じる時がある。それは書いた人と会った時である。実際に会うまで書き手については書かれた文字でしか判断できないし、それしか情報はない。ところが会えば文字以外の情報、すなわち書き手の容貌や性格、話し方とその内容などを入手することができる。すると、その書き手には文字から得られる情報以外の魅力があることがわかったりして面白い。

もっとも、逆のケースがないわけじゃない。文章はユニークで面白いのだが、実際の人物は文章から期待していたほどでなかったりすることもある。見かけや話し方はフツーなのに、なぜ文字を書かせると面白いのか。もしかするとその人の相対している時の「フツーさ」はポーズなのか?一体どちらが本当なんだろうか。そんな人もいる。

いずれにしても、文字から得られる情報なんて大した量じゃない。だから例えば綿密に調査された作曲家の評伝ですら、その作曲家の真実のほんの一部しか表現していない。いや、それしか表現できないのだ。

そうなると、当の本人は意外に思っていることだろう。「おい!オレはもっと面白い奴だったぜ!」とか「そんな大それたことをするつもりはなかったんだけどなぁ」とかね。もっとも、当人はすでに鬼籍に入っているから文句すら言えないのだが。

ここから導かれるのは、他人によって表現される自分というのはほんの一部であり、すべてが伝えられているわけじゃないということ。所詮は文字による情報である。すべてを表現できるはずがない。だからいくら詳細な評伝などという宣伝文句があっても決してそれを鵜呑みにしてはいけない。本当は全く説明されていないのだから。

そんなことを書きながら、ふと思う。そういえばワシは文字を書くのが商売だったな…と。うーん、なんだか複雑な気分。
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一寸の虫にも五分の「脳みそ」

2006-06-06 12:14:41 | 脳みその日常
昼間、外を見ようと窓に近づく。すると名前もわからない小さな虫が何度も何度も窓ガラスにぶつかっていた。別にコイツ、好きで窓に激突しているわけじゃない。虫には光源に向かう本能があるから、コイツはきっと本能のおもむくままに行動していただけなのだろう。

それにしてもコイツがガラスにぶち当たる現象だけを見ると、まるで遊んでいるかのよう。窓に激突しては床に転がり、それでも再び窓に突進。そしてまた激突してコケる。七転び八起きどころの話ではない。コイツに感情があるならきっとこう思っているに違いない。「なぜ先に進めないんだ!」いや、ことによると本当に遊んでいるのかも。

お茶目に激突を繰り返す奴がいるかと思えば、近くにいる別の小さな虫は「思慮深い」。見ているこちらが「お前もチャレンジしろよ!」と思ってしまうほど動かない。おや?死んでいるのか?と思うほど動かない。でも、よく見るとちゃんと生きている。

虫の世界にもいろいろな奴がいるものだ。
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カッコイイ大人のイメージ

2006-06-04 18:31:22 | 脳みその日常
ワシが子供の頃、大人といえば酒を飲み、タバコを燻らすものと相場が決まっていた。それがまた格好よく見えたし、憧れでもあった。映画やテレビを見てもカッコイイ俳優のアイテムといえばやはり酒とタバコが必ずセットになっていたものである。これらがなくちゃ、サマにならなかった。

昔のジャズ・メンだってライヴではくわえタバコでパフォーマンスしていたし、クラシックの演奏家だって男性アーティストのほとんどはタバコを片手にインタヴューを受けていた。そういえば、ピアニストのサンソン・フランソワの出ていたかつてのレーザー・ディスクでは場末のジャズ・バーで黒人青年が見つめるなかでフランソワは葉巻をくわえながら演奏していたな。

しかし今や嫌煙の時代となった。そして世の中がヘルシー志向となるにつれて紫煙を燻らす大人は減り、どの人も顔色が良くなっている(ような気がする)。それはそれで良いのかもしれない。

でも、そこでふと思う。今の子供たちが見た、あるいは抱くカッコイイ大人のイメージってどのようなものなのだろう、と。まさか某ヒルズに住むような大人がカッコイイなんて言わないだろうな…。

あ、それはイメージじゃないな。いや、そもそも子供らはイメージをもっているのだろうか。それとも大人たちにカッコ良さなんて期待していないのかな。うーん、もしそうならそれも寂しい気がするけれど。

まあ、大人の目線で考えてみても近頃カッコイイ大人っていない気がするけど、どうだろう。昔は「ハチャメチャだけど何だか魅力あるよな?」って人がいて、カッコイイと思ったりした。そんな人を目指したこともあったかもしれない。

でも現代の大人はお行儀が良くなったのか、破滅的な行動をする奴はせいぜい犯罪者くらいであり、みんな何かこぢんまりまとまっている。それがどの分野でも大物を生まない理由なのかもしれない。しかしそんな「小物」にカッコよさなんてないよな?
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何を盗むか

2006-06-03 09:42:31 | 音楽あれこれ
先週ある有名な四重奏団の演奏を聴いた。その時に、ふとその四重奏団に師事したという若手の四重奏団のことを思い出した。なるほど、若い連中はこの大物四重奏団から影響を受けている。それはわかった。ただし、どのような影響を受けたのかということが問題だった。

結論からいえば、若い彼らが大先輩から盗んだのは演奏における表面的なもの、つまりどの楽器が大きい音を出すかとか、音楽にどのようなドライブをかけて演奏するのかということだった。つまりはモノマネのレヴェルだったのである。

確かに芸術は模倣から始まる。それは間違いではない。しかし師匠の技を盗むというのは単に表面的な模倣ではないはず。師匠の演奏を聴いて、作品をどう解釈すべきなのかを考えるほうがはるかに意味がある。結果として師匠の演奏に類似する表現になったとしても、それは構わない。問題なのは最初から模倣することで満足してしまうことだ。

もちろん逆のケースもある。すなわち師匠を反面教師とすることだ。これは厳密には影響を受けたとはいえないかもしれない。しかしながら弟子が師匠のような演奏をしてはいけないということに気づけば、それはそれで意味があるのだし、ベクトルの異なる影響ということにもなる。

要は学ぶ側が音楽をどのように感じ、解釈するかなのである。深い洞察力をもってすれば、どのように演奏すべきかは自ずと見えてくるもの。単に著名な演奏家のマネをしてもそれは猿真似にすぎず、どこまでいっても真の意味で聴衆の心を揺さぶることはできない。
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音を聴かない習慣

2006-06-02 17:40:20 | 音楽あれこれ
意外に思われるかもしれないが、音楽を生業にしている人間は普段音楽を聴かない。少なくともワシはそうである。聴くとしても専門でないジャズやロックなどだ。なぜそうなのか問われても困る。単に仕事以外で音楽は聴きたくないからというしかない。

だからよく街で若者がヘッドフォンをしながら歩いているのを見ると不思議でならない。ただでさえ他人に聴こえるような音量で聴いているのに、コイツら、耳が疲れないのかなと。いや、もしかすると彼らは音楽を聴いてはいるが、実は外界の音から自らを遮断させているのではないか…。もちろんそれは当人のみが知ることなのだが。

いずれにしても、はっきり言えるのは聴覚が鈍い人がいるということ。ウチの近所にはガラクタを細かく加工して商売にしている家がある。その一族は本当に音に対して鈍感なのだ。仕事柄グラインダーやら何とかカッターを使うので、彼らは普段から強烈な音を聞くのに慣れている。

だから話し声も人一倍デカイし、行動を見ていても非常に大雑把。デリカシーなどという言葉はまず彼らの辞書には存在しない。いや、そんなデリカシーなんてなくてもいいから、せめてフツーに生活してくれ。それだけでいいから。
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減点法の音楽

2006-06-01 15:35:25 | 音楽あれこれ
このところ演奏会や原稿の締め切り、それに講義が続き、ブログどころではなかった。先ほど、ひとまず落ち着いたので書くことにする。

ここ一週間ほどの間に聴いた演奏会で気づいたのは、キレイなだけの演奏は何の面白味もないということ。キレイな演奏というのは、いうなればミスがなく破綻しない演奏をいう。もちろん演奏中に音を外しまくったり、どうにも収拾がつかなくなってしまうのも困りものだ。でも、ソツなくキレイに演奏すれば感動を呼ぶのかといえば、そうでもない。「お上手だねえ」という程度の印象しか残らないものだ。

こうした優等生的な演奏はコンクールではきわめて有利である。彼らはミスはしないし、グチャグチャな演奏になることもないからである。基本的にコンクールってのは減点法で審査されるから減点対象が少なければ少ないほど高得点になる仕組みなのだ。コンクールの上位入賞者がとりあえずみんなお上手に聴こえるのはそういうわけなのである。

では減点法による採点は何を意味するのか。極論してしまうなら芸術性なんて二の次ということ。感動させる演奏ができなくてもソツのない演奏をきちんとすればよいということでもある。いうなれば音楽を数値化して判断出来ればいいんだもんね。ただし、優勝者がみな退屈な演奏をするのかというと必ずしもそうではない。なかには技量はもとより音楽性においても優れたアーティストはいる。そんなに数は多くないけれど。

だから○○コンクールで優勝したという記述があったとしてもその優勝者のレヴェルは必ずしも同一とは限らない。ある者はキズの少ない演奏だったゆえに優勝したのかもしれないし、別のある者は文句のつけようもないほど優れた演奏で優勝したかもしれないのだから。

それにしても、ソツなくキレイに演奏する人の音楽は本当に退屈だ。音を外すような基本的なミスはないからその点でイライラさせられることはない。しかし特別音色に気を配るわけでもなく淡々と演奏するのを聴いていると、一体この人には感情があるのかしらと思ってしまう。別にこの人が演奏しなくても精密な機械仕掛けの楽器でも使って「再生」させればいいではないかなどと意地悪なことを考えてみたり…。

そんなツマラナイ演奏の仕方を教える教師にも問題はある。その「総本山」について、ここで悪口を書いても仕方がないので言及はしない。それに、迂闊に書いたら世界中に散在する「信者たち」から総攻撃を食らう可能性もあるだろうし…(ないない)

ま、冗談は半分にして、とにかく音楽教師がすべき最も重要なことは学生に音楽の素晴らしさを伝え、それをどのように表現したらよいかを教えることである。音を外さないように練習しろなんてのは、はっきりいってどうでもよいこと。そんなのは練習によってどうにでも克服可能なことだからだ。

教師は学生の感受性にさらに磨きをかけるような指導をすべきなのではないか。もしそれができないのなら、そういう人は教えるべきではない。また教師自身に演奏家としての能力があるのなら、具体的に教えられなくても自ら演奏することで手本を示せば良いのだ。そうでないと、学生には豊かな感受性があるのにダメ教師によってその才能はことごとくつぶされてしまうことにもなりかねない。

「総本山」を出てきた者たちが一様に平板な演奏をするのがまさにその例だと思う。もっとも、学ぶほうも途中でその「教義」の怪しいところに気づかないのもどうかと思うけどね。あぁ、まるで宗教だな(苦笑)
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